2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

kojitakenさんごめんなさい

阪神ー広島戦観戦。3塁アルプス。今日はてっきり中止と思ってメガホンも持たず、チケットだけ持っていった。阪神百貨店で時間を潰していたら、「開門は16時45分からです」なんてアナウンスをしている。本来16時に開門予定のところを45分遅らせたわ…

麻生太郎総理の会見内容

備忘録として(「http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080928-00000549-san-pol」)。 「まず中山成彬(なりあき)大臣の辞任につきまして一言申し上げたいと存じます。発言として甚だ不適切。大変残念ですけれども、関係しておられた国民各位、またそれに…

中山成彬氏の「単一民族」発言について

私は上のエントリで中山成彬氏の「単一民族」発言を批判する意図は毛頭ない。氏の発言は「内向きの単一民族」ということで、「単一民族」をネガティブに捉えている、という点で、今までの「単一民族」発言に比べると、それほど悪質であるとは思えない。これ…

「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」5 追加法287

日本には奴隷を労働力として人身売買した歴史はない、という意見がある。戦前に単一民族説を強く打ち出し、アジア主義を否定し、大日本帝国に弾圧された津田左右吉はその典型例だろう。津田は日本民族はきわめて均質的な単一民族で、日本列島に数万年も前か…

中山成彬氏のおごり

産経新聞の記事(「http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080929-00000052-san-pol」)。 だが、自民党内では中山氏の「おごり」を指摘する声も少なくない。組閣では、麻生首相から行革担当相を打診され、「私も妻も役人出身だから無理」とゴネて国交相に就…

日本車両製造

まずはizaの記事(「http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/182018/」)から。 中山成彬国土交通相が支部長を務める自民党宮崎県第1選挙区支部が、国交省など発注の橋梁(きょうりょう)工事談合事件で公正取引委員会の排除勧告を受けた2社から、談…

「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」4追加法286

引き続き「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」を読んでいく。この法令は追加法(『中世法制史料集 第一巻 鎌倉幕府法』第二章「追加法」)の282〜294に分類されるひとかたまりの法令である。建長5(1253)年10月1日に出されたこ…

「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」1追加法282

前エントリで取り上げた追加法289は、建長5(1253)年10月1日に出された「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」の一部である。この法令では「撫民」ということが強調されている。追加法282から追加法294にまたがるこの一連の「…

「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」3追加法284、285

検断(犯罪処罰)に関する地頭代の苛政をチェックするための一連の追加法の検討の続き。追加法282から追加法284までをひとまとまりとしてここにまとめる。それは、仁治3年(1242)1月15日の「新御成敗状」の中の追加法175に相当する条文だ…

「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」2追加法283

この一連の法令は地頭の苛政をチェックし、撫民を実現しようとする意図に貫かれている。『中世政治社会思想』(岩波思想体系)においては「ここでとくに正員にかわって在庄し現実の検断権行使者である地頭代を名指ししたことは、法令の実際上の効果を高める…

「逃散」と「逃亡」と「逃毀」

黒田弘子氏の『女性からみた中世社会と法』(校倉書房)から。 氏によれば「逃散」は必ずしも「移動」するとは限らない、という。「逃散」した「百姓」が「召し決せられる」対象、つまり訴訟の当事者となりうることから、「逃亡」とは異なり、「隠れ籠る」こ…

追加法289条

もう一つ「去留」関係の史料。建長5年(1253)10月1日に制定されたこの条文は「諸国郡郷庄園地頭代」に「存知」し、「沙汰」するように出された法令群の一部である。 本文 一 土民去留事 右、宜任民意之由、被載式目畢。而或称逃毀、抑留妻子資財、…

追加法182条

式目42条の「去留」関係の細則と言われる追加法182条(『中世法制史料集』追加法)。仁治3(1242)年1月15日に出された「新御成敗状」の一部。 とりあえず本文。 一 百姓逃散時事 右、或抑留資財、或召取其身之条、頗無謂乎。自本至于去留者、…

式目42条における「逃毀」と「去留」

御成敗式目42条における「逃毀」について、解釈の違いを示しておこう。 一応読み下し文を再掲しておく。 一、百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事 右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ取る。所行の企てははな…

御成敗式目42条

北条重時の政治思想に関わって、「撫民」の事例をいくつかみていきたい。中世社会は基本的に「自力救済」つまり「自己責任」の世界である。自己責任を否定し、弱者救済を行うことを「撫民」という。鎌倉幕府ではさまざまな「撫民」政策を展開した。その一つ…

「極楽寺殿御消息」を〈読む〉

極楽寺殿とは北条重時のこと。重時は三代執権北条泰時の弟で、長きにわたって六波羅探題北方を務め、北条時頼が五代執権に就任すると時頼を補佐する連署に就任する。その娘は北条時頼と安達泰盛に嫁ぎ、時頼との間には北条時宗と北条宗政が生まれる。子ども…

存在が意識を決定する

昨日のエントリで触れた山川智応『日蓮聖人研究』(師子王学会)。私の目当ては「武蔵守宣時の人物事蹟位地権力とその信仰−聖人の法敵となりし政治界巨人の研究 其の二−」である。山川は北条宣時の人物を検討し、その政治家としての力量を高く評価する。日蓮…

山川智応『日蓮聖人研究』

師子王学会から昨年に出版された山川智応『日蓮聖人研究』上下二巻到着。古本屋で3万円ちょっとで入手。もちろんほしかったのは「武蔵守宣時の人物事蹟位地権力とその信仰−聖人の法敵となりし政治界巨人の研究 其の二−」である。1931年に出版されたこの…

ナゴヤドーム

私は貧乏神。ロシア株式に投資する投資信託を買った途端めちゃくちゃ暴落。ブラジルも落ちている。 新井貴浩内野手のグッズを大量に携帯に付けたら腰椎骨折。 ナゴヤドームに行って弁当を買おうと思ったら、山本昌投手の200勝の弁当があったので買った。 …

モボ101増備

「夕子」号を増備。次は「京漬物森」のラッピング電車も欲しい。次の鉄コレでは叡山電鉄のデオ300も発売される。阪急ではどうも810系晩年仕様。私は京都線沿線なんで710系のイメージが強いかも。ただ買って物置の奥に押し込まれた西宮北口駅セクシ…

得宗専制論分析への視角

鎌倉幕府は大きく三段階に分けられる、というのが通説である。京下りの官僚層に囲繞された鎌倉殿の独裁体制が敷かれ、源頼朝を支えた関東の武士団は政治のプロセスから排除された段階である。頼朝死後の源頼家や源実朝をめぐる暗闘は、その矛盾が噴出したも…

北条貞時はなぜ執権を辞したか

正安3(1301)年8月22日、九代執権北条貞時は執権を辞任し、翌日出家した。法名は崇暁(後に崇演と改む)。 突然の執権の退任にはさまざまな原因が考えられる。同年の正月22日に名越時基に嫁していた貞時の娘が死ぬ。それが原因かもしれないという…

「伝統」重視の政治

鎌倉時代末期に鎌倉幕府の対朝廷政策を持明院統寄りに舵を切らせた安達時顕とは何者か。安達氏と言えば霜月騒動で滅亡したはずではないのか。 霜月騒動とは、北条時宗死後の幕府をリードし、弘安徳政を実施した安達泰盛を、対立する得宗御内人の平頼綱が滅ぼ…

一代主の憂鬱

後醍醐天皇が倒幕に舵を切るのが、自分の皇太子だった邦良親王が死去し、新たな皇太子に後醍醐の皇子である尊良親王ではなく、持明院統後伏見上皇の皇子である量仁親王を擁立し、さらに次期皇太子に邦良親王の皇子康仁王が擁立され、自らの「一代主」が確定…

そもそも金沢貞将って誰?

という疑問が湧くのは当然だろう。ちなみに読みは「かねざわさだゆき」である。「さだまさ」ではないので注意。ちなみにウィキペディアでは「さだまさ」となっている。15代執権金沢貞顕の嫡子で、1302年生まれ。新田次郎『新田義貞』では主人公新田義…

金沢貞将は誰を威圧したのか

河内祥輔氏は『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館)において後醍醐天皇による第一次倒幕計画、いわゆる正中の変について疑問を呈する。確かに正中の変後の幕府の対応には不審な点が多い。後醍醐が倒幕計画にいささかでもかかわっていたならば、ただち…

大佛貞直の陸奥守就任をめぐって−陸奥守の地位は低下したのか−

大佛貞直の「陸奥守」就任というのは、歴代の「陸奥守」に比べると段違いに見劣りがするように見える。というのも、それまでの「陸奥守」は一門の有力者に継承されてきたのであり、最終的には連署やそれに次ぐ人々に受け継がれている。貞直は得宗の外戚でも…

鎌倉時代の「陸奥守」北条貞直

北条貞直は大佛流北条宗泰の嫡子として生まれる。宗泰は11代執権大佛宗宣の弟で二番引付頭人を務めた。従五位下土佐守。 貞直は生年未詳で、要職就任以前の経歴も明らかではない。1320年の文書が残っていて、在京していたことがうかがわれる。当時は従…

鎌倉時代の「陸奥守」北条維貞

北条維貞は大佛流北条宗宣の嫡子として1285年に生まれる。式部少丞に1301年17歳で任ぜられたのを振り出しに1303年19歳で右馬助、20歳で引付衆、22歳で評定衆、23歳で五番引付頭人となる。父宗宣や祖父宣時と比べると叙爵、要職就任年…

三人の「陸奥守」ー嘉元の乱に関する一試論ー

1305年に起きた嘉元の乱に関しては史料があまり残っていないこともあってその実像は闇の彼方にある。南北朝時代に書かれた「保暦間記」に従うと次の通りになる。 北条時宗の弟の宗頼の子で、九代執権北条貞時の従弟であった内管領(侍所所司兼得宗家公文…