2014-12-01から1ヶ月間の記事一覧

対訳『椿葉記』13

又播州国衙は長講堂領の外にて、代々の御譲状各別なれば、国衙もおなじく返し申さる。〈国衙の奉行職は、光厳院の御時、勧修寺、朝恩に拝領して、御年貢を執沙汰申なり。〉同別納十个所もまいらせらる。おほよそ国衙の別納は数十个所あり。故院御管領にまか…

昔御内書符案

太刀一腰・馬二疋〈河原毛、鹿毛駮〉給了、悦入候、仍太刀一腰・鎧一領〈浅黄糸〉・扇五十本進候状如件 永享元 十二月二日御名乗 左兵衛佐殿 太刀一腰・馬一疋〈河原毛〉到来了、神妙、仍太刀一腰・鎧一領〈白糸〉・扇三十本遣之候也。 永享元 十二月二日 白…

昔御内書符案

大刀一腰・栢樹一本到来了、神妙候也。 永享三 四月四日 高山駿河守殿 宇多庄弓矢事、先度仰下候処、依籌策属無為候、神妙候也。 永享元 九月十一日 伊達兵部少輔殿 伊達兵部少輔-伊達持宗 宇多庄弓矢事-篠川公方及びその後見の白河結城氏と足利持氏派の石川…

対訳『椿葉記』12

かくて同年五月に萩原殿の前坊崩御成ぬ。かの御領どもは室町女院〈後堀河院御女〉御遺領なり。前坊御一期の後には宗領に返付せらるべき由、光厳院殿御置文あり。始終は伏見殿御管領あるべしよし、前坊御在世の時法皇へ申をかる。此子細准后きき披かれて、室…

昔御内書符案

筑前国事、為料国、仰付大内さ京大夫入道之処、対狼藉之輩致忠節云々。尤神妙、弥可抽戦功也。 同日 原田刑部少輔殿 筑前の原田氏に大内と合力するように命じた御内書。原田氏はこれを契機に大内氏の傘下に入り、大内氏滅亡後も大友氏に抵抗を続ける。 大友…

昔御内書符案

太刀一腰馬一疋栗毛・轡十口・染革十枚・鳥目万疋到来了。神妙候。太刀一腰・香合・盆遣之候也。 永享三年二月廿三日 小笠原治部大輔殿 小笠原政康宛。永享の乱と結城合戦で義教方として活躍。村上政儀の渡道にも関係があると私は睨んでいる。 筑前国事、為…

対訳『椿葉記』11

いつしか御領の事どもさたありて、御百个日すぐれば、やがて長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下、ことごとく禁裏へめされぬ。あまりになさけなき次第、申せばさらなり。しかれば忽に御牢篭のあひだ、親王やがて御出家あり。おほよそ長講堂・法金剛…

昔御内書符案

太刀一腰・鎧一領・島目万疋到来了、神妙候、太刀一腰、鎧一領〈浅黄糸〉・馬一疋〈鹿毛〉遣之候也 永享三 二月七日 渋川中務大輔殿 渋川満直充の御内書。少弐氏との戦いに大内盛見と連携して当たるが、この御内書発給の半年後に盛見が戦死、満直も永享六年…

対訳『椿葉記』10

其後准后も出家し給。その比、又伏見殿へ御参ありて、いと快然なりしほどに、進物十万疋まいらせられて、その御礼に御庭の田植興行せられて入申さる。田楽などいとおもしろき御遊ども侍りき。かくて応永四年の冬より御悩にて同五年正月十三日崩御なりぬ。遺…

対訳『椿葉記』9

其後准后はやがて太政大臣に成給て、威勢いよいよさかへましまして、吹風の草木をなびかすがごとくに、四夷帰伏して万国静謐せり。城南の離宮には閑素として歳月を送まします程に、明徳三年十一月卅日上皇は法皇にならせ給。御戒師は常光国師なり。法親王に…

対訳『椿葉記』8

さて禁裏は御在位十二年ましまして、永徳二年四月御譲位ありしかども、今度は伏見殿より御微望を出さる〃に及ばねば、あらそふ方なく一の御子御位につきぬ。新院は御治世なれども、天下の事は大樹執行はせ給。その比ふしみ殿へ准后常に御参ありていと時めき…

対訳『椿葉記』7

承久以来は、武家よりはからひ申す世に成ぬれば、いかにも申沙汰せらるべきよしを再三仰らる。御理運勿論とは存知申ながら、内裏より別して頼之朝臣をたのみ仰らるゝによりて、所詮いづかたの御事をもいろゐ申ましき由を申て、つゐに一の御子御譲位ありぬ。…

河野加賀入道続

何があったのかのまとめ。 其子細ハ祇園神主代僧去々月比歟、被殺害了。仍彼僧若党召捕究問処、河野加賀入道妻〈神主僧猶子松寿丸母也〉作語間殺害由白状了。仍此白状旨ニ任テ河野入道妻ヲ可有御罪科歟処、夫入道罷成代官種々陳望申了。其上妻カ罪可懸夫段又…

河野加賀入道

帆船ハッカ(@kotosakikotoko)/2013年12月17日 - Twilogで河野加賀入道が『満済准后日記』にあることを知り、そこで『満済准后日記人名索引』で調べた。その結果、永享五年八月一日、六日、九日、九月十八日条に出ていることがわかった。 永享五年八月一日条 …

対訳『椿葉記』6

さて内裏は伏見殿と御中よく申通られ侍る。その比、将軍は幼少にて、執事細川武蔵守頼之朝臣天下の事は執沙汰申程に、内裏には近臣ども内談ありて、御譲国のさたやう/\風聞せしかば、伏見殿より栄仁親王践祚の事、後深草院以来正嫡にまします御理運の次第…

対訳『椿葉記』5

さて延文二年二月十八日上皇は伏見の離宮に還幸なる。閑素にてまします。両法皇、先坊もみな還御なる。抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受て上皇御管領あり。御堂御領知行す…

対訳『椿葉記』4

さて春宮は廃せられて、光厳院第二宮、同八月十七日践祚あり。父の御譲にもあらず、武将のはからひとして申をこなふ。此宮は、妙法院の門跡へ入室あるへきにさため申さる〃ところに、不慮の聖運をひらかせ給て、御子孫まで継体四代に及へり。 春宮-直仁親王 …

対訳『椿葉記』3

同三年閏二月廿日南朝の天気によりて両上皇・新院・儲君直仁親王、八幡の軍陣に幸しまします。南方の官軍利なくして八幡より没落、河内国東条の城に遷幸あり。同五月に又大和国加名生の離宮に渡御なる。同八月に光厳院御落餝あり。其後河州の行宮にて禅衣を…

対訳『椿葉記』2

崇光院は光厳院第一の皇子にて、後嵯峨院以来皇統にてまします。御在位わづかに三年、天下乱て観応二年十一月七日南朝より取奉て御位を廃す。同十二月廿八日太上天皇の尊号を奉らる。此日、光明院にはかに御出家あり。御発心ときこゆ。其後伏見の法安寺にて…

「悪口事」

御成敗式目12条には「悪口咎事」という条文がある。 一 悪口咎事 右闘殺之基、起自悪口。其重者被処流罪、其軽者可被召籠也。問註之時吐悪口則可被付論所於敵人也。又論所事、無其理者可被没収他所領。若無所帯者、被処流罪也。 その判例。 正安二年七月二日…

対訳『椿葉記』

恒例の尻切れトンボシリーズw 伏見宮貞成親王が実子の後花園天皇に奉った著書。崇光院流に生まれ、後光厳院流の後小松上皇の猶子として即位した我が子後花園天皇に崇光院流の歴史と、自分に太上天皇号を欲しいという希望と、天皇としての君徳の涵養の必要性…