史論

ピンチ

塾に通勤の途中、阪本龍門文庫の『庭訓往来注』を見ていると「夷鮭、唐鮭ト別也」とある。家に帰って「節用集」を見ると「塩引、干鮭」とある。伏見宮家が室町将軍家に大盤振る舞いしていたのは越後の塩引か。蝦夷地産として論文を書いてきた俺、ピンチwしか…

無知を自分の思い込みでカバーしても正しい答えは出ないぞ

疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文。干鮭のことを「カラサケ」などとは言わない。そもそも「干」に「から」などという読みはない。ここは「唐の酒」と読むのが自然。無知を自分の思い込みでカバーしても正しい答えは出ないぞ。 unko大先生のこの金…

無知を思い込みでカバーする室町時代人

unko先生の下のコメントに触発されて室町時代人の用語の誤りを指摘するシリーズ。まだまだ続きます。 疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文。干鮭のことを「カラサケ」などとは言わない。そもそも「干」に「から」などという読みはない。ここは「唐の…

「無知を思い込みでカバーし」てる例

しばらくunko氏の指摘する「無知を思い込みでカバー」している例を挙げていきたい。 unko氏によれば「疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文」 ということで、疋を貨幣単位以外に解釈しているのは「無知を思い込みでカバー」している例であるようだ。 …

「干」に「から」の読みはないのにマルハニチロもそう読んでいる。無知なんかな。

マルハニチロのサイトより。 サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社 無知を思い込みでカバーしようとしているらしい私だが、こんなに簡単に「干鮭」の読みが出てくるとは。自分でも知らなかったよ。とりあえずunko氏はマルハ…

干鮭(カラサケ)の論文を書くことに決めた

今書いている科研費報告書の論文で近衛政家の日記を見直す必要があってブログに久しぶりにアクセスしたら、次のようなコメントがunko氏によって付されていた。 疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文。干鮭のことを「カラサケ」などとは言わない。そも…

『蔭涼軒日録』の「南蕃酒」

文正元年八月一日条 琉球国使芥隠西堂(破了) 大軸并南蕃酒小樽忽賞之。其風味与我方(破了) ということで、南蕃=南蛮=西洋=ワインというのはあまりにも単純すぎる。室町時代の南蛮とは東南アジアのことであり、琉球を介して関係が存在した。東南アジアを介し…

『看聞日記』の「唐酒」

こちらは「カラサケ」ではなく「唐酒」なので酒そのものだろう。永享7(1435)年正月二十八日条。足利義教邸での酒宴。 肴物美麗点心魚鳥唐物等飽満。初三献之時唐酒被出。気味如砂糖其色殊黒。 ということで詳しくは知らないが紹興酒のようなものか。

近衛政家はワインを飲んだのか

キリンのサイトには 古くは1483(文明15)年の『後法興院記』に、関白近衛家の人間が「チンタ」を飲んだという記述がある。このチンタが赤葡萄酒のことといわれている。 という記述がある。ワインと日本人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン …

【悲報】

ウィキペディアで俺氏が嘉吉年間に十三湊を没落したと考えている論者とされた模様。俺氏は永享年間に没落し、嘉吉年間に没落したという『新羅之記録』の記述を疑う立場。 追記 4月に直ってました。有難うございます。

北の戦国時代論について

『新羅之記録』に「自康正二年夏迪大永五年春、破東西数十日程中住所村々里々、殺者某事、起元於志濃里鍛治屋村也。活残人集住皆松前与天河」とあることを根拠にして15世紀半ばから16世紀半ばまでアイヌと和人が戦争状態だった、とされている。しかし発掘成…

大永五年の「蝦夷蜂起」

書いてたらフリーズして消えたので意気消沈。 『福山秘府』に以下のような記述が見える。 同〔大永−引用者注〕五年乙酉 松前年代記曰、春東西之蝦夷蜂起、人亡者多矣。無恙者住於松前与天河。 『新羅之記録』には以下のようにある。 自康正二年夏迪大永五年…

対訳『椿葉記』31

かくて院の御所にわたらせ給。さる程に内裏は廿日崩御なりぬ〈諡号称光院〉。践祚の事いまはひしひしとさだまりて、禁中は触穢なれば、三条前右府〈公冬公〉の亭を点じめされて新内裏になさる。俄に修理せられて殿舎などつくりそへらるゝとぞきこえし。同廿…

対訳『椿葉記』30

御共には綾小路前宰相経兼卿・庭田三位重有卿・綾小路中将長資朝臣、女中按察殿〈庭田三位女〉、御乳人などまいる。忠意僧正もいかゞともてなし奉りて四五日御逗留あり。さて室町殿より関白〈二条〉を以て、事の子細を仙洞へ申さるゝ程に、同十七日仙洞に入…

対訳『椿葉記』29

御位の望にて御謀反の企ある由、世中さはぎ申程に、七月十二日夜中ばかりに、世尊寺宮内卿行豊朝臣伏見殿へ馳参、三宝院准后の御使にて室町殿より申さるゝ趣は、宮御方明日京へなし申されよ、まづ東山若王子へ入申されて警固申さるべきなり〈赤松左京大夫入…

対訳『椿葉記』28

さて四月に年号かはりて正長元年と申。延喜こそ久しき年号にてあるに、それにこえて卅四年は我朝にためしなし。誠にながかるべき年号にてありけり。さて此五月の比より御悩はなをおもらせましまして、儲君の御事、世にはさまざま申程に七月のはじめ嵯峨にま…

対訳『椿葉記』27

その比赤松左京大夫入道没落して天下もしづかならず。御悩も一方ならず。世中はうかうかとし年も暮ぬ。あくる年正月十八日内府薨給ぬ〈勝定院と称号申〉。思ひよらずいとあさまし。いまは御子もなければ、御相続の事如何とさたあり。管領、畠山、諸大名評定…

『看聞日記』に見る鮭と昆布

永享八年五月九日条に以下の記事がある。 永享八年五月 九日、晴、源宰相伏見へ下。明堯禅門廿五年忌為仏事、蔵光菴七ヶ日可看経云々。於菴作善執行。南御方自今日精進断酒也。自公方鱸魚五、鮒鮨(魚編に离)三桶、菱食一給。東御方申次則賞翫。永基朝臣持経…

対訳『椿葉記』26

さて内裏は七月の末御悩俄に大事にましまして、すでに崩御の由披露あり。儲君の御こと内々沙汰ありて、君の御事世には治定のやうに申めり。さる程に不思議に御とりのべありて、次第に本復まします。此御願に卅四年の冬八幡・賀茂両社の行幸あるべしとて、世…

足利義嗣に関する妄想

今閃いた妄想。 足利義持は足利持氏に対する上杉氏憲の攻撃を当初は容認し、むしろ督戦していたのではないか。その担当が義嗣だったのではないか。しかし叔父の満詮に迫られ、手のひらを返して持氏支持に回ったために氏憲と義嗣は粛清され、多くの大名も梯子…

太田光

科研プロジェクトの代表からコシャマイン戦争についての問い合わせが来て、答えたら「それオモロイから次の研究会で発表してくれや(意訳)」と言われて必死で大崎教兼挙状を検討中。そこで太田光の検討が。といっても爆笑問題のボケとは同姓同名の違う人(当た…

『満済准后日記』に見る禅秀の乱

今調べている網走の応永板碑関係、応永二十四年の年紀がある。ちょうど禅秀の乱の後である。 応永二十四年五月九日条 宇都宮へ(続群書類従本では「人」となっているが、どうみても「へ」である)御書。今日被□ー□(鎧カ)一両〈白糸〉御太刀一腰彼(続群書…

足利義嗣と北海道史

北海道中世史以外では顧みられることもない足利義嗣。その問題を三月に報告するので忙しいので放置。 でもIXAはするw

対訳『椿葉記』25

其四月に仙洞には宸筆の御八講をこなはる。これは後円融院卅三廻の御仏事にて執行はる。紺紙金泥の法華経、竹園門跡助筆申さる。貞成にも両巻〈第五巻、阿弥陀経〉かゝせらる。後記のためも無官にてはいかゞにて、親王宣下の事を望申。仙洞勅許子細なくて四…

対訳『椿葉記』24

さて同卅年二月院の第二宮、これも俄に御隠あり。此宮は勧修寺中納言養育申て、かの家にわたらせ給。今度の儲君ときこえさせ給つるにいとあさまし。おなじ月に又将軍宰相中将義量〈勝定院息、号長徳院〉逝去せらる。うちつゞき公武の御歎もさこそとおしはか…

対訳『椿葉記』23

襁褓の時より今出川入道左府に養育せられて、多年菊亭に侍き。幼稚のそのかみ、聖護院覚増法親王の弟子に契約して、すでに入室の日次まで定らるゝ処に、不思議の障碍さへ出来してとまりぬ。倩思ふにも、こなたさまの身は、門跡をさへきらはるゝ程の員外の身…

対訳『椿葉記』22

かくて同廿三年十一月廿日親王つゐに薨給ふ。兼より遺書をあそばしをかれて、大光明寺に料所を寄られて、御塔頭をたてゝ大通院と御称号を申べき由申定をかる。さる程に一の宮〈治仁〉、御相続ありしに、いく程もなく次の年二月十二日俄に御隠ありしに、いと…

対訳『椿葉記』21

さて内裏は、御治天卅年政務おぼしめすまゝにておりさせ給ふ。同十九年八月廿九日一の宮〈称光院〉に御位ゆづり申さる。御治世はもとのごとくにて、よろづ目出度わたらせ給。伏見殿には御老病なへなへとまします程に、始終御安堵の事を仙洞へ申さるゝとて、…

対訳『椿葉記』20

いまはもとの御所もなし。御座あるべき所なくて故三位局〈杉殿と申〉里にて宝厳院と申比丘尼所になされたる所を、まづ御所になさる。狭少不思議なる草庵の、かりそめながらいまに御所にてあるなり。萩原殿をば前坊の御子に周高西堂と申人、公方へ所望申され…

対訳『椿葉記』19

さて准后御かくれの年、管領申沙汰して伏見御領を返申さる。此御領は長講堂領なれども、惣御領に混ぜずして伏見殿の御子孫管領あるべきよしを、光厳院殿御置文あり。御名字の地なるうへ、別したる御譲の子細も申披かるゝに付て、御安堵あればめでたくて、次…