安達泰盛による「異国征伐」計画

モンゴル戦争の最中、三度にわたって「異国征伐」が計画された。1276年、1281年、1292年である。このうち有名なのは1276年の「異国征伐」であり、ターゲットは高麗であった。従来さまざまな議論がなされてきたが、例えば戦前には「壮挙」と位置づけられてきたが、戦後には「冒険主義的な侵略」と位置づけられてきた。
ただ戦前と戦後に共通する視点として挙げられるのが、同時に進行していた「異国警固番役」を「消極的防禦」と位置づけ、「異国征伐」を「積極的攻撃」と位置づける点にある。
海津一朗氏はその見方の根本を批判する。現実的な「防衛」とは相手の軍事施設の破壊を含めた海上警固の徹底であり、「防衛戦争」という概念自体が、近代国民国家帝国主義的分割段階に入った時点に現れたものだとする。それは「防衛戦争」というスローガンで派兵する、という帝国主義諸国の常套手段であった、と。
そういう目を取り去って、「異国征伐」と「異国警固」を検討すると、この両者が有機的に見えてくる、と海津氏はいう。実は石築地(元寇防塁)と「異国征伐」は同時日に計画されていたのだ。前線基地の破壊としての「異国征伐」、制海権の確保としての「海上警固」、沿海要塞の構築としての「石築地役」。これらは三位一体のものとして計画されていたのであり、決して「攻撃」から「防禦」への転換ではない、という。
さらに言えば、「異国征伐」は朝廷との政治的駆け引きに使われていた、という。朝廷は「異賊退散」を理由に有事体制の解除を主張し、幕府は「異賊退散」後にも有事体制を継続するために「異国征伐」を計画する、という図式が見えるのだ。
有事体制の中で幕府の権限は大幅に強化された。そして鎌倉幕府は滅亡に至るまで、一貫して有事体制をとり続けた。一旦有事体制に入ると、その解除は難しい。鎌倉幕府の場合、体制が瓦解するまで有事体制は解除されなかったのだ。
有事体制下においては、「敵」との戦い以上に資源が投入されるのは、国内体制の構築である。国内世論を喚起し、「戦争」を合理化する。反体制勢力を徹底的に弾圧する。これはいつの世の有事体制においても共通するものであろうが、鎌倉幕府の場合、「神国思想」で国内世論を形成する。そしてそれに反抗するものに対しては「悪党」のレッテルを貼り付けて排撃する。そして戦闘能力が重視される。「堪器量仁」体制が構築され、戦闘能力に劣った人間の排除が行われる。コンピュータの前で口先だけの御託を並べるしか能がなく、実際に国防に寄与できていない私など、真っ先に排除の対象だな。
そのような体制作りに大きく貢献したのが安達泰盛である。泰盛はそもそも元のフビライから書状が届いた時、亀山天皇が返書を出そうとした時に、それを押しとどめ、元との戦争を演出した時から、朝廷を排除した有事体制の構築を構想していたのであろう。亀山天皇が出そうとしていた国書は、文面を読む限りでは、「和親返牒」路線に傾いていたもので、特に高麗宛の国書にはそのような意向を色濃くにじませたものであった。しかし亀山天皇の「和親返牒」路線は直後に北条義宗六波羅北方に任ぜられ、北条時輔を粛正した、いわゆる二月騒動で瓦解した。幕府よりの姿勢を終始取り続けた後嵯峨法皇の重病を契機とした亀山天皇鎌倉幕府への抵抗は二月騒動で終焉したのである。後嵯峨法皇が死去したのはその直後であった。幕府は危機一髪、その危機を乗り越え、亀山政権はタッチの差で鎌倉幕府への徹底抗戦は阻まれたのである。後嵯峨法皇の影響力の喪失を契機とした政変を鎌倉幕府は未然に防ぎえたのである。その絵を描いたのが、まだ若い北条時宗を支えた安達泰盛であることは、疑いの余地がない。その後も安達泰盛はことあるごとに「異賊襲来」を盾に、「異賊退散」を主張する亀山政権と対立する。
泰盛のもう一つの政策が「徳政」である。「徳政」の基本は「自力救済」を否定する「平和令」であり、収縮する経済状況に対応して既得権の大規模かつ強圧的に否定する政策である。今、流行の言葉で言えば「改革」というところであろうか。
泰盛が「徳政」を遂行するためには、有事体制で強力な権限を手にする必要があった。13世紀後半の日本は「異賊襲来」を口実に強大な権力を手にした安達泰盛のフリーハンドにあったのである。その中でいち早く泰盛に接近した豊受大神宮(伊勢外宮)の渡会氏は大きな果実を手にした。内宮の荒木田氏と、伊勢神宮全体を統括する大中臣氏を排除しようとしたのである。そして多くの御厨を手にした。伊雑宮を傘下に収めたのもこのころである。宇佐神宮では宇佐公世のもと、大規模なリストラが行われた。北野天満宮は「敬神の御代」を口実に菅大臣社を傘下に収めた。寺社に対しては「神領興行法」が出され、かつて神社にゆかりのある土地はしばしば神社に「返却」された。菅大臣社の場合は、土地所有を主張する文書を証拠書類として出した紅梅殿の住民の主張は400年前の一枚の古地図によって破棄された。彼らは「悪党蜂起」と見なされ、逮捕され、「下人所従」と呼ばれる奴隷に身を落とされた。
泰盛による「徳政」という名の改革は大きな影響を後世の日本に残した。「徳政」によってリストラされた人々は「下人」という奴隷になるか、被差別民になるかの選択を迫られる。格差社会の到来である。勝ち組は「大名」とか「有徳人」と呼ばれ、負け組は容赦なく「下人所従」になる。これが日本中世の現実だった。