華夷秩序

華夷秩序とは「中華」と「夷狄」の間に取り結ばれる関係で、しばしば「東アジア国際秩序」と目されるものである。しかし厳密に言えば「華夷秩序」は「国際関係」ではない。そこを混同することで冊封関係にあることを「属国」とする誤認が起こるのだ。「属国」とは近代国家の「主権」の一部を外国によって制限されている国のことである。近代以降の「国際関係」は「対等」な「国家」間に取り結ばれる関係である。これはあくまでも「国民国家」が成立した後の概念であって、国民国家フランス革命で成立する以前にはそもそも「対等」な「国家」による関係など存在しない。西洋では神聖ローマ帝国を中心とした「帝国」による統合が存在したのだ。
中華帝国を中心とした華夷秩序は、皇帝と国王の君臣関係を軸とした統治理念であり、そこには「内」と「外」の区別はない。要するに「外交関係」ではない。「天」の下での共通の「文化」を前提としたあくまでも相対的・可変的な関係なのだ。近代以降の民族のように固定的・血統的なものではない。「中華」とは「礼・文」つまり儒学の素養を身に付けた人々で、「夷狄」とは「礼・文」を身に付けていない人々を指す。従って夷狄でも中華に近づけるし、中華でも夷狄になり得るのだ。「礼・文」を体現したものが中華の皇帝である。皇帝は「礼・文」に基づく徳治を行う。しかし皇帝が徳を失えば、天は別の徳のある者に皇帝の位を授ける。易姓革命である。
日本が易姓革命思想を内在する華夷秩序と本格的に向き合うのは、今日「蒙古襲来」「元寇」と呼称される「文永・弘安異国合戦」を経験した13世紀後半以降である。モンゴル帝国(大元大モンゴルウルスーいわゆる「元」)と向き合った「日本」は、中華の文化や品物を求めて多くの人々が大都をはじめとする元の都市に赴く。禅宗の僧侶であったり、商人であったりするのだが、中には北条時宗の母や妻にチャーターされた商人もいた。元からやってきた禅僧も日本に多大なインパクトを与えただろう。南宋からやってきた蘭渓道隆や亡命僧無学祖元は北条時宗を対元主戦派に導いただろう。一方元から派遣されてきた一山一寧は北条貞時によって建長寺の住持に迎えられ、その後円覚寺浄智寺を経て、後宇多上皇招請に応じて南禅寺三世となるが、彼が伝えた朱子の新註が花園上皇後醍醐天皇をはじめとした公家社会に影響を及ぼす。後醍醐を養育した吉田定房は日本の遅れの原因を易姓革命のなかったことに求め、現在易姓革命の危機が迫っていることを後醍醐に伝え、後醍醐に倒幕を思いとどまらせようとしている。また花園上皇は皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に対し、日本には易姓革命がないことを以て日本の特殊性を云々する人々を「諂諛之愚人」「士女之無知」と指弾している。
華夷秩序があくまでも可変的・相対的な自他認識であるとすれば、その交代の契機はどこかに現れるはずである。明清交替すなわち明の滅亡と清による中華の奪取という事態は、「華夷変態」とも言われ、中華が夷狄に奪取された事件として華夷秩序内部に大きな衝撃をもたらした。華夷変態という事態を受けて日本や朝鮮では「中華」は日本や朝鮮にある、という見方が現れる。
日本の場合、日本こそ「中華」である、という小中華主義の考え方の政治的な背景としてやはり華夷変態と並んで、戦国時代を勝ち抜いた集中的軍事力の形成というのが挙げられよう。豊臣秀吉中華帝国に公然と反旗を翻した事件はやはり多大なインパクトを与えたに相違ない。秀吉だけではなかった。1592年は明にとって受難の年であった。万暦三征と言われる事件が立て続けに起こったのだ。それらはいずれも明の中華としての威信を大きく傷つけた。
万暦三征の中で一番規模が大きく、しかもそのきっかけとなったのが万暦朝鮮の役である。1592年の4月、豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に侵入する。明は援兵を送るが、その混乱に乗じて楊応龍の乱が起こる。播州宣慰使楊応龍が苗族とともに明に反旗を翻した。さらに寧夏城ではモンゴルのボバイが明に反旗を翻す。翌年にはいずれも鎮圧あるいは和議が成立するが、日本は1597年に再び朝鮮に侵入する。明の東・南・北で相次いで起きた中華への反乱は中華としての明の威信を大きく傷つけることになった。
中華から見た「辺境」で、集中的軍事力を蓄えていたのは日本だけではなかった。日本で豊臣秀吉が集中的軍事力によって日本を統合していた頃、満州ではヌルハチが建州女直(兀良哈)を統合していた。建州女直は朝鮮王世祖の代に朝鮮と紛争を起こし大きな打撃を受けていたが、その打撃から回復し、毛皮や人参の需要に乗じて経済的軍事的に強大な力を持ちつつあった。ヌルハチも明からの自立を宣言し、明に公然と反旗を翻す。1644年、明は滅亡し、混乱に乗じた建州女直が清王朝の樹立を宣言した。
日本に集中的軍事力をもたらした戦国時代とはそもそも何だったのか、を考えていきたい。