知里真志保のアイヌ学批判

大江健三郎氏は知里真志保に関して次のように述べる。

知里博士が戦いをいどみ、そして絶対に全滅させる敵は、一般的にはよきアイヌ理解者と目されている学者たちである。博士はそうしたアイヌ理解者の精神の奥底にアイヌへの見くびりや、安易な手をぬいた研究態度を見つけだしてそれを叩きつける。しかもその怒りの声の背後からは切実な悲しみの声も聞こえてきて、それはわれわれをうたずにはいられない。

知里真志保アイヌ民族ではじめて国立大学の教授に就任したアイヌ学の研究者である。東京帝国大学金田一京助に師事し、北海道大学教授に就任した。姉は『アイヌ神謡集』で有名な知里幸恵、伯母はユーカラの伝承者であった金成マツである。知里真志保の最大の特徴は彼がアイヌ語母語としていなかった、という点であろう。彼の父知里高吉と母ナミはクリスチャンで早くから日本語や英語を学び、アイヌ語を全く話さなかった。幸恵は伯母の金成マツのところに預けられ、そこでアイヌ語アイヌ文化に触れえたが、知里真志保アイヌ語を学んだのは金田一京助からである。
知里は室蘭中学から成績が優秀で、級長になったことがあったが、アイヌが級長になったことに反発があり、「右向け右」と号令をかけたら全員がきれいに左を向いたことがあった。知里はこれ以降成績を抑えるようになった。中学卒業後登別村の戸籍係に就職したが、自分の戸籍に「旧土人」とあるのをみて戸籍係を退職する。「旧土人」という言い方については当時において既にアイヌの自尊心を損ねるものであり、北海道への開拓者が「新土人」と言っているから必ずしも差別ではない、というのは詭弁でしかない。
戸籍係を退職した知里に東京に出てきて学問を進める声は当然出ていた。彼に着目した一人が喜田貞吉である。もう一人が金田一京助であった。結局姉の知里幸恵の縁から金田一に師事することを決めた知里は第一高等学校に入学する。極めて優秀な成績で第一高等学校に合格した知里だが、実際には彼には解いていない問題がある。国史の問題で「蝦夷征伐について述べよ」という問題であった。知里は自分の似顔絵を描き、「この人を見よ」と書いたという。
高等学校時代には同級生から「知里君、君は北海道出身だろう。北海道ならアイヌを見たかい」と聞かれた。同級生はまさか天下の第一高等学校にアイヌがいるとは思わなかったのだろう。知里は「アイヌが見たかったら、このオレがアイヌだよ」と返した。知里が戦った一つの見方がアイヌに対するこのような劣等性の刻印であった。
北大の教授時代、知里の官舎に雑貨屋の店員がご用聞きにやってきた。新顔でまだあどけない顔をした少年が本州の出身であったことを知った知里が話しかける。「なんで遠い北海道まできたの?」少年は無邪気に答える。「アイヌが見たかったから」知里は怒鳴りつけた。「ナニィッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」少年はびっくりしただろう。まさか目の前に立っている北海道大学教授がアイヌだったとは。知里の行為を大人げないと評することは容易である。ここでは少年が明らかに「弱者」で、知里は「強者」である。しかし同時にこの少年の無邪気な一言が知里の自尊心を大きく傷つけた、というのも事実である。この評価は一筋縄では行かない。
知里は学問について次のような言葉を残している。

思ふに学問の価値は絶対ではない。それは社会との関係に於て、又人類の幸福を齎す限りに於て、相対的な価値を有するのである。従って他人の心を傷つけつゝする学問は無価値である。

これは知里の処女論文である「ウエンベ・ブリ?−本誌所載深瀬春一氏論文を駁す」の一節である。深瀬春一が「ウエンベ・ブリ−登別村においてアイヌの葬式を見て」という論文を書いていたことに対する批判である。深瀬がみたアイヌの葬式とは知里の祖母の葬儀であった。アイヌ語の語法に関する批判であるが、根底にはアイヌの葬儀を単に学問的分析の対象としてしかみていない深瀬に対する批判が込められていたのである。
知里が最も気にしたのはアイヌに対する劣等性の刻印であった。「他人の心を傷つけつゝする学問は無価値」というのは、知里アイヌ学全般に向けた厳しい批判である。