松浦武四郎をどうみるか

松浦武四郎は「北海道」の名付け親である。1844年から6回蝦夷地に渡っている。そして蝦夷地の詳細な調査を行い、その中で和人によるアイヌへの残虐行為を告発したことで知られる。
水戸藩のバックアップがあったこともあり、いわゆる「勤王の志士」扱いをされることもあるが、明治維新の時に就任した開拓大主典に就任し「蝦夷地」を「北海道」に変えたことで知られるが、わずか半年で辞任した。開拓使アイヌの生活基盤を破壊した場所請負制を継続したことに抗議したためとされる。
松浦武四郎の評価も時代に翻弄された。明治時代前半には評価されなかった。一つには彼の実地調査には過ちが多かった、ということも事情の一つだが、彼のアイヌに対する和人の残虐行為の告発があまりに生々しく、実際にアイヌへの残虐行為に携わった人々がまだ存命で、しかも彼らがそこで得た資金を元手に社会の中枢に昇っていたことも関係していたと思われる。
関係者がほぼいなくなったころ、20世紀に入って武四郎の評価は上がり出す。日露戦争を控えて「国家主義者」「勤王の志士」をいう言われ方がなされるのだ。実際に武四郎のアイヌに対する叙述を見ると、アイヌを「皇国」の人として抑圧してはいけない、という書き方が随所にみられる。アジア太平洋戦争期には北門鎖鑰の先駆けとして評価される。特に日本陸軍は対ソ連をにらんでいたために、「北方の脅威」というのは、このころ常に喧伝されたのだ。
戦後は北海道の観光ブームと相まって「北海道」の名付け親という側面がクローズアップされ、またアイヌ史の研究の進展とともに武四郎が告発したアイヌに対する残虐行為の数々に注目する著書も数多く出た。現在も左派のアイヌ史の叙述に影響を与えてるように思われる新谷行『アイヌ民族抵抗史』はその先駆けと言えるだろう。花崎皐平『静かな大地』は新谷行の業績を受け継ぎ、北海道史研究者の間での松浦武四郎に対する厳しい評価に疑問を呈する著書である。
花崎皐平氏アイヌ問題に対する真摯な対応は学ぶべき点が多いとはいえ、私はやはり花崎氏と新谷氏の松浦武四郎に対する評価には大きな問題があると考える。
私はやはり武四郎がアイヌを「皇国」の枠内で把握しようとしたことに大きな問題点があるように思うのだ。アイヌを決して「日本」の枠内にあるものと見ようとしなかった松前藩と比べて武四郎を高く評価するのは、単一民族論の陥穽にはまりこむような気がしてならない。武四郎の精いっぱいの良心は認めなければならない。しかしアイヌを日本人の枠組みで捉えない見方が悪質であるとは決して言えないのだ。武四郎を無条件に持ち上げ。松前藩を無条件に貶めるのは単純で分かりやすい図式である。しかしここまでみてきたようにアイヌの独自の文化を認め、アイヌの生活基盤を侵さないというのが松前藩の対アイヌ政策の骨子であった。最終的に自らの無能失政により、「民間」に丸投げして財政再建策に走り、アイヌの生活基盤を侵した責任は問われなければならないだろう。しかし松前藩のやり方を否定した幕府の「介抱」の方こそアイヌの生活基盤を根底から崩し、アイヌを少数者に追いやり、アイヌの生活文化に「未開」「野蛮」のレッテルを貼り付けて否定し去ったのである。アイヌの誇りを潰したのはむしろ江戸幕府とその政策を引き継いだ大日本帝国であった、というべきである。松浦武四郎はその流れに無関係に存在しているのではない。
1854年にロシアの南下に対応して幕府の調査隊が派遣される。その中で松前藩の統治能力に疑問符がついたのだ。当時すでに江戸幕府の方針によって松前藩アイヌの自主性を重んずるという「夷次第」「自分稼」の原則は変質せしめられていた。松前藩には自主性は全くなかったのだ。一方で松前藩の財政は危機に瀕していた。松前藩は従来のごとく場所請負権を担保に債務を重ねていた。松前藩が統治能力を喪失しているのは明らかであった。対ロシア関係が課題として浮上してくる中、1855年には蝦夷地の再直轄地化が行われた。しかし江戸幕府は効率の良くない幕府の直営貿易を行わず、結局商業資本に請け負わせた。江戸幕府ももはやアイヌに配慮している余裕もなかった。蝦夷地の開拓政策が推し進められ、松前藩が最後まで抵抗した場所への永住は許可された。アイヌモシリに大量の和人が流入してくる。さらに大網の使用制限も撤廃された。生産力の高い場所に労働力の投下が行われ、コタンは崩壊した。アイヌモシリは急速に荒廃の度を勧めていった。武四郎が見た蝦夷地はそのような状態だったのである。
武四郎がもっぱら問題にしたのは商人達である。商人のバックにいる江戸幕府、直接には函館奉行を批判することはなかった。彼自身幕府の御雇だったからである。その点に武四郎の限界を見る。
もう一方で武四郎が今でも読まれる価値があるのは、彼の告発がアイヌの目線で行われていることである。彼のアイヌに対する記述には厳しい当事者意識があり、彼の目線は決してアイヌを「遅れた者」とはみていない。彼は一人の人間と人間としてアイヌと向き合い、その告発を受け止め、それを記録し続けた。そのために彼は常に命の危険にさらされ続けた。その危険を承知しながらアイヌに対する和人の非道を記録し続けた。その熱情と良心は記憶にとどめるべきだろうし、このような和人がいたことは誇りに思っていいだろう。
新谷行氏や花崎皐平氏が武四郎に肩入れする理由は何となくわかる。新谷氏の『アイヌ民族抵抗史』は「アイヌの立場」から書かれた「通史」である。しかし新谷氏は和人である。和人が「アイヌの立場」になることは実際には不可能である。下手に「アイヌの立場」を主張し、連帯を模索するのは、アイヌであることの「押し付け」になりかねない。アイヌとどう連帯するのか、そのモデルケースを新谷氏も花崎氏も武四郎に求めたのではないだろうか。しかし私は思うのだ。武四郎を理想化しすぎるのも考えものである。と。武四郎の本当の姿を見つめることしかない。