違星北斗

あゝアイヌはやつぱり恥しい民族だ酒にうつつをぬかすその態
この短歌を見て何を思うだろうか。アイヌに対する蔑視。しかしこの歌を詠んだのもまたアイヌである。この歌を詠んだアイヌ青年違星北斗余市町生まれのアイヌ。小学校卒業後様々な職業を経て1925年、23歳の時に上京し、東京市場協会事務員に就職する。アイヌ語研究者の金田一京助と出会った北斗は、金田一の依頼で第二回東京アイヌ学会で講話をする。差別に耐えながら母に励まされ、ようやく小学校を卒業し、漁業に携わるも、良い漁場はすでに和人の押さえる所となっており、生活の安定は得られず、和人を恨み、日本を恨む日々であった。どうしたらよいかを考えるために労働の合間に読書し、勉強した。アイヌというのが本来「善い人間」という意味だったのに、今や侮蔑の意味を押し付けられていることを悲しみ、本来意味を取り戻そうと考え、さらに水平社運動への共感を主張した内容であった。
講話が終わり、一人の男が近づいてきた。「私は君とは反対の方向から来た伊波というものだが、君の気持ちはよくわかる。」当時金田一と同じ上田万年研究室で琉球語の研究をしていた伊波普猷であった。違星北斗伊波普猷を二度訪ね、いろいろと話し込んだようだ。伊波は違星に助言した。「雑誌を出して宣伝するのもいい、著書をしてアイヌを紹介するのもいい、中等程度の学校を設立する運動をするのもいい、けれども君らの同族にとっての目下の急務は、同胞の間にはいりこんで通俗講演をやることである」と。
違星は1926年に北海道に戻り「アイヌ一貫同志会」を結成し、アイヌの地位向上のための運動を始める。
1927年にはバチェラーの創立した平取幼稚園を手伝いながら、アイヌ青年向けの学習会を結成し、機関誌『コタン』を創刊する。1928年から売薬行商に従事するが、結核に倒れ、1929年1月26日、27歳で死去する。
日記には3首の短歌が1月6日付けで記されていた。絶筆である。

青春の希望に燃ゆる此の我にあゝ誰か此の悩みを与へし
いかにして「我世に勝てり」と叫びたるキリストの如安きに居らむ
世の中は何が何やら知らねども死ぬことだけはたしかなりけり

死の間際まで違星を捉えていた「悩み」とは何だろうか。
それをうかがわせてくれるだろう違星北斗の短歌をいくつか挙げておこう。

滅びゆくアイヌの為めに起つアイヌ違星北斗の瞳輝く

ここでは違星青年の希望が現れている。アイヌへの「通俗講演」を通じてアイヌの誇りを取り戻させようという使命感に燃えているのだ。しかし現実は厳しいものであった。

酒故か無智な為かは知らねども見せ物として出されるアイヌ
白老は土人学校が名物でアイヌの記事の種の出どころ

白老の「土人学校」は有名であった。アイヌに「土人」としての劣等性を押し付けるこの制度はまさに「北海道旧土人保護法」の象徴でもあった。一部には北海道開拓者が「新土人」で、それに対応した「旧土人」という呼称であるから、「北海道旧土人保護法」が決して差別性を帯びたものではないという議論が散見される。「土人学校」は「新土人」を対象にしたものではない。「土人」としてさげすまれるのは「旧土人」だけなのだ。「土人」が見せ物とされる。この劣等性の押し付けは違星にとっては我慢ならないものであったに違いない。
冒頭の短歌もその文脈で理解されるべきであるのは言うまでもない。
他にこのような歌もある。

山中のどんな淋しいコタンにも酒の空瓶たんと見出した

貧困と差別の中で酒に逃避するアイヌの姿がそこにあったのだ。

淪落の姿に今は泣いて居るアイヌ乞食にからかふ子供
子供らにからかはれては泣いて居るアイヌ乞食に顔を背ける

そういう現状に対して違星は叫ぶ。

滅亡に瀕するアイヌ民族にせめては生きよ俺のこの歌
勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌアイヌ今どこにゐる