安達頼景

福島金治『安達泰盛鎌倉幕府』(有隣新書、2006年)に安達泰盛の兄弟についての考察がある。しばしメモメモ。
安達頼景は安達泰盛よりも二年年長の1229年生まれ。1241年1月23日に笠懸の射手として「城次郎」富みえるのが初見。1253年泰盛とともに引付衆。福島氏は「家督継承者の候補の一人だったのだろう」としている。1257年に丹後守となり、秋田城介の継承候補から外れ、1263年には六波羅評定衆となった、という。1272年の二月騒動で関東に召し下され、所領二ヶ所を没収、霜月騒動では連座を免れた。1292年没。
頼景が六波羅評定衆になったことをどう評価するのか、という問題がまず提起されるだろう。1263年の六波羅探題北条時茂。時輔がやってくるのは翌年のことになる。したがって時輔と頼景を結びつけるのは早計だろう。確かにいずれも庶兄である、という点は類似しているが、単なる立場の類似だけで結びつくとは限らない。ただ両者とも宗尊親王との関係が指摘されており、二月騒動で粛正された人には宗尊親王と関係の深い人々が多かった、という事実は注意されてよい。宗尊出家を二月騒動と結びつける見解は今のところ賛同は少ないようだが、私はこれをもう少し考えてもよいように思う。名目は後嵯峨法皇死去であろうが、時宗周辺が宗尊を常に警戒していたことまでは否定できないだろう。本人らにその意図はなかったとしても、時宗名越教時北条時輔と宗尊の結びつきを警戒したことは十二分にあり得ることであるように思われる。二月騒動で粛正されたのは宗尊親王の関係者であった、としても不思議ではないだろう。
二月騒動を契機に時宗の政治権力は確立することは間違いない。しかしそこから離れていった人々もいても不思議ではない。それまで時宗を支えてきた安達泰盛が二月騒動以降距離をとり始めたのではないだろうか。逆に言えば安達泰盛の路線に時宗が逆らい始めた端緒であるとも言い得るかもしれない。北条時宗安達泰盛の関係を必ずしも固定的に考える必要はないのであって、その対立図式は政情に応じて変動したのではないだろうか。その大きな転機が二月騒動であると言えるかもしれない。その意味で時宗は政敵もろとも支持者も失ったというのもあながち不当ではなかろう。