北条時輔関係資料  文永7年(1270)後9月11日「六波羅御教書案」『東大寺文書』(『鎌倉遺文』10700号)

いろいろ文書をやり取りして、最終的な結論は地頭代伊藤行村の改易。これは『鎌倉遺文』10699号文書の「長井泰茂書状」によって知られる。まずは「長井泰茂書状」(『東大寺文書』『鎌倉遺文』10699号文書)から。

(端裏書)「茜部庄地頭出羽守年貢書状」
茜部庄御年貢事、去年分無懈怠、致其沙汰候了。兼又伊藤左衛門尉不法之由候之間、改易代官、五郎左衛門尉秀氏と申候物に申付候。当年御年貢のためニ在国候。早相尋子細可申候。恐々謹言。
   文永七年
      後九月十日  前出羽守泰茂

読み下し。

茜部庄の御年貢の事、去年の分懈怠無く、其の沙汰を致し候おわんぬ。兼て又、伊藤左衛門尉不法の由候の間、代官を改易し、五郎左衛門尉(菅原)秀氏と申し候物に申し付け候。当年の御年貢のためニ在国候。早く子細を相尋ぬ可く申し候。恐々謹言。
   文永七年
      後九月十日  前出羽守(長井)泰茂

長井泰茂は大江広元の子孫。鎌倉幕府評定衆にも名を連ねる長井氏の庶流である。美濃国茜部荘地頭になったものの、鎌倉幕府の重職であり、なおかつ文官なので、地頭代を派遣して地頭の職務を遂行させていた。伊藤行村は現地の借上を営む金融業者であり、在地領主で「請負代官」として地頭代の任務に当たっていたが、東大寺と紛争の末、ついに敗訴、改易の憂き目にあったようだ。
六波羅御教書の本文。

東大寺美濃国茜部庄雑掌申年貢以下事、別当僧正御文(副年預五師状)、如此。去年雖有沙汰、不事行云々。早帯重陳状、可被明申也。仍執達如件。
 文永七年後九月十一日   散位 在御判
地頭殿

読み下し。

東大寺美濃国茜部庄雑掌が申す年貢以下の事、別当僧正の御文(年預の五師の状を副ふ)、此の如し。去年沙汰ありといえども、事行われずと云々。早く重陳状を帯し、明め申さるべき也。仍て執達件の如し。
 文永七年後九月十一日   散位(北条時輔) 在御判
地頭殿(長井泰茂)

泰茂の書状の内容に時輔は満足していないようだ。さらに事実の糾明を要求している。一人になってもがんばっているようだ。時輔が要注意人物として六波羅探題南方に左遷された、という通説が成り立ちづらいのは、この時期の時輔の活躍があるからだ。もし時輔が危険人物とみなされて六波羅探題南方に左遷されたのであれば、北方の時茂が死去した時に直ちに北方が派遣されて然るべきだが、実際には北方は派遣されず、南方の時輔が一人で六波羅探題の職務を執行している。時輔が左遷された、というのは疑わしい、という説の方が説得力ありそうな気がしている。