足利義満を消したのは誰か

小島毅氏『足利義満 消された日本国王』(光文社新書、2008年)読了。今まで言いたくて、でも能力の限界で言えなかったことをすっきりさせてもらった読後感。学問を志して以来、一貫して保持してきた関心がまさに氏の本の帯にあるキャッチコピー「東アジアの視点で解き明かす」だったし、だからこそそのための手段として明や朝鮮の史料で日本を読む、という試みを行ってきたわけだが、能力の限界で言いきれなかったことが大きい。著者の小島氏は儒教史、東アジアの王権論、ということで、東アジアのスタンダードに合わせようとした足利義満の政治家としての能力にスポットを当てている。足利義満天皇制をどのようにしようと考えていたかは、まだ決着の済んでいない問題で、今谷明氏は天皇家を乗っとろうと考えていた、と1990年に『室町の王権』(中公新書)で述べて以来、論争が戦わされてきたのだが、近年ではどちらかと言えば、摂関家を超える最高の家格を得ようとした、と考えるのが主流で、必ずしも天皇にとってかわる意図まではなかった、とするのが有力だ。
今谷氏は「日本国王」は義満が天皇に替わる権威を明に求めようとした、と主張したが、小島氏は日本国内の事情からではなく、東アジア世界規模での大変動を背景としている、と指摘する。私自身二〇〇四年に公刊した論文では義満の「王権簒奪行為」と「日本国王」は従来考えられてきた「王権簒奪行為」のための「日本国王」という図式で考えるべきではなく、「日本国王」のための「王権簒奪行為」と考えるべきであることを、征西将軍懐良親王の「日本国王冊封」から論じたが、拙論の問題点は、「東アジアの視点」が圧倒的に弱い点にあった。
小島氏は次のようにいう。

日本国王」義満にとって、後小松帝がついている「みかど」の地位は、まだかれより上にあるものだったのだろうか。
天皇を常に上に意識して歴史的に「天皇」と呼ぶのは、政治的・思想的に右であれ左であれ、天皇の権威に跪いてその存在の重さを認めていることの告白にすぎないのかもしれない。
足利義満こと源道義は、この虚構の思いこみから自由な、数少ない日本人であった。それはかれが日本列島だけに限定されぬ、東アジア世界を相手にした政治秩序を構想していたからであった。かれを二重の意味で消したのは、日本を日本として夜郎自大的に守っていきたいと考える者たちであった。

「二重の意味で消した」というのは、まずは義満の肉体が「人為的に消された」、つまり暗殺された、ということと、歴史記述から抹消された、ということを表している。
井沢元彦氏は『天皇になろうとした将軍』において義満暗殺説に言及し、その下手人を世阿弥とした。小島氏はその見解を批判し、義満と愛人関係にあり、なおかつ義持に冷遇された世阿弥が義満を恋愛のもつれからではともかく、政治的に暗殺することは考えづらい、とし、下手人候補として一条経嗣斯波義将伏見宮栄仁親王などを挙げている。
私は井沢氏や小島氏とは違う人を考えている。義満は公式的には「咳病」つまり呼吸器系の病気で急逝したとされている。暗殺するにはかなり義満に近い人物でなければ無理だろう。伏見宮栄仁親王は脱落する。彼には義満に冷遇され、天皇になれないばかりか、家系が断絶するかもしれない、という危機感を抱いていた、という点で大きな動機はあるが、義満との関係がいささか疑問である。義満と二人きりで会うことはあり得ないだろう。一条経嗣も義満にこき使われて日記に不満を書き留めるしかない憤懣がたまっている、という点で動機はあるが、問題が残る。義満が死んだ後に幕政は大きな転換を遂げる。義満の死と幕政の大きな転換は間違いなく関係している。一条経嗣では幕政の転換は説明できない。斯波義将は動機が弱い。彼は義満と同じく、というよりも義満より早く東アジア的視点で明との関係を模索したことがあった。対明関係の転換は義将の死後であることと、義将の子孫がその後冷遇され続け、没落していくことを考えると可能性は低い。
小島氏は挙げていないが、義満死後の幕政をリードした人物として足利義持が考えられる。義満に対してかなり鬱屈した感情をため込んでおり、二人の不仲は明の永楽帝や朝鮮の太宗のもとまで知られるほどであったことから考えると、義持が父義満を殺したことは考えられることである。しかし二人の仲は冷えきっていたので逆に義持が義満と二人っきりになる可能性はない。しかも義持はまだ若く、未熟である。義持はとりあえず容疑者から外したい。
畠山満家は義満によって畠山氏の惣領から外され、弟の満則に譲らされた。この点で義満を殺す動機はある。しかも義持政権下においては満家は重用されている。しかも彼は当時の守護大名には珍しい漢文を書かない人物であったらしい。彼の子どもの畠山持国が朝鮮使節と面会する時の対応をみても彼ら一族が「日本を日本として夜郎自大的に守っていきたいと考える者たち」であったことは事実だろうし、その点では容疑者として挙げられるが、義満との関係をみると実行犯としては疑問が残る。
私が容疑者の最有力候補としてあげたい人物がいる。義満と非常に親しく、義満の信頼が極めて高かった人物。しかも義持政権において重きをなし、さらに義満から愛されていた義満の遺児義嗣を殺すことを義持に迫った人物でもある。義持が義嗣と不仲であった、というのは、結果をみて言っているに過ぎない。義嗣が軽くみられた時、義持が義嗣に代わって激怒している史料が存在する。義持は義嗣をそれなりに評価し、厚遇していたのである。上杉禅秀の乱に関わったという無実の罪を着せ、抹殺するように義持に迫った人物。この人物こそ義満を抹殺した張本人に違いない。その人物とは、足利満詮。義満の弟である。栄達を極める義満の側にあって大納言になり、義満のスペア的存在としてひっそり存在していた人物。義満の同母弟であった彼は義満が冷遇した母良子の面倒を終生見続けた。この点で義満を殺す動機はある。しかも義持政権では義持の後見役として重きを成し、人々からも信頼され、人望があったとされる。つまり義満の政治構想には批判的な考えを持っていたことは想像できる。しかも満詮は自分の妻を義満に差し出している。これが自発的なものであった、というよりは、義満から要求されたものであったとすれば、義満に対して不満を持つ事情にはなり得るだろう。
つまり満詮は義満を殺す動機はあったし、義満と二人きりになれるだけの義満からの信頼は得ていた。さらに義満死後の幕政のあざやかな転換をリードできるだけの政治的資質を備えていた。足利満詮以外に義満を暗殺できる人物はいない、と私は考える。
ただ義満暗殺ということが立証できない事象だけに、このテーマは学術論文にはならないので注意を要する。「義満を消した」中身が義満に関する歴史的記述を消した、ということであれば、学術論文になり得るのだが。だから満詮で論文を書こうとすれば、義満の路線を否定したのは誰か、という意味で「義満を消したのは誰か」という問題の立て方をする必要がある。というわけで、いつかこれ論文のネタにならないかな。