大佛貞直文書一覧

一応鎌倉時代最後の「陸奥守」大佛貞直の文書一覧。
・文保元年(1317)12月15日「大佛貞直書状」(『鎌倉遺文』26468号)
・文保2年(1318)3月12日「大佛貞直書状」(『鎌倉遺文』26583号)
・元亨3年(1323)7月5日「六波羅御教書案」(『鎌倉遺文』28450号)
・正中3年(1326)3月17日「金沢貞顕書状」(『鎌倉遺文』29390号)
元徳元年(1329)12月22日「金沢貞顕書状」(『鎌倉遺文』30832号)
上二つは貞直が発給した文書。いずれも貞直が資寿院の外護者となった時の文書で、資寿院は現在は相国寺の一部。つまり京都にいたことになる。山家浩樹 「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』第53号)に詳しい。
三つ目は「陸奥守」の署判があり、(大佛貞直カ)としているが、明らかに間違いで、「陸奥守」は当時南方であった大佛維貞、左近将監が当時北方であった北条範貞(北条時茂の孫)である。『鎌倉遺文』では「左近将監」を維貞としている。興味深いのが時輔と時茂の署判の場所が常に時輔・時茂の順序、つまり北方の時茂が上席であったのに対し、この文書では北方の範貞・南方の維貞の順番になっている。この場合、南方が上席に相当する。この時期には関東申次との交渉も南方の維貞が行なっており、森幸夫氏の『六波羅探題の研究』(続群書類従完成会)に詳しい考察がある。森氏は「執権探題」という言葉で表現している。
下の二つはいずれも15代執権を務めた金沢貞顕の文書の中に出てくる。最後の文書は貞顕と仲の悪かったらしい二階堂貞藤に関する文句と並べて貞直の陸奥守就任の話が出てくる。貞顕は六波羅探題時代に資寿院の外護者であったが、貞顕の関東帰任後に貞直がその地位を踏襲しているらしいところ(山家氏前掲論文)をみると、両者の関係は良好だったのだろう。