鎌倉時代の「陸奥守」安達泰盛

北条時村陸奥守から武蔵守に転じた後に陸奥守になったのは、安達泰盛である。安達泰盛安達義景の子で、叔母の松下禅尼北条時氏に嫁いで四代執権北条経時と五代執権北条時頼を産んでいる。泰盛自身は北条重時の娘を娶っており、時頼もまた重時の娘を正室にしていて、嫡男北条時宗を産んでいるので、泰盛は時頼の義兄弟ということになり、さらに泰盛の妹は時宗に嫁いで貞時を産んでいる。得宗とは切っても切れない深い関係を結んでいることが分かる。かつては安達泰盛を「豪族的御家人」の代表と見なし、得宗専制政治とは対立するものと見なす見方が主流だったが、今日では泰盛自身も北条氏に深くつながっていたことが指摘されており、「豪族的御家人」と見なす見方はとられていない。特に泰盛は極楽寺流と関係が深く、極楽寺流が長時・時茂と若死にし、連署にまで上り詰めた義政が時宗と対立して失脚する中で、極楽寺流の政治思想である「統治」を堅持する政治家と見なす評価もある。彼の政治姿勢は「徳政」とも言われ、裁判制度の充実による「自己責任」もとい「自力救済」の弱肉強食の否定(雑訴興行・平和令)をその基本方針としていた。裁判制度を充実する「統治」における「弱者救済」は御家人だけでなく、「百姓」(庶民)にも向けられていた。例え庶民対御家人の裁判でも御家人に理がないと見なされれば敗訴する。それは非御家人御家人の枠組みに組み込んでいくことを意味していた。特にモンゴル戦争の中で本所一円領(地頭不設置の荘園)の住人を動員したり、本所一円領から軍需物資を徴発する必要に迫られていた鎌倉幕府にとって「御家人」の拡充と鎌倉幕府の拡大は不可欠であった。しかし御家人の拡充と鎌倉幕府の拡大は、従来から鎌倉幕府御家人であった人々の既得権益を侵害することにもなる。安達泰盛にとっての最大の障壁は御家人の既得権を主張する「御家人の利益」派であった。その筆頭が平頼綱であり、頼綱の主人の時宗であったことは皮肉であった。
泰盛は1231年生まれで、23歳の1253年に引付衆として政界にデビューする。翌年には秋田城介を襲名、1256年に五番引付頭人評定衆入りと幕府の要職を務め、1264年に三番引付頭人・越訴頭人を担当する。この時一緒に越訴頭人を担当していたのが金沢実時であり、実時の子の顕時の妻は泰盛の娘である。1266年には引付衆廃止のため三番引付頭人を辞し、寄合衆に名を連ねる。1269年に引付衆復活の際には五番頭人に就任し、1275年には恩沢奉行となる。『竹崎季長絵詞』に泰盛の姿が描かれているのは、泰盛が恩沢奉行として季長に恩賞を与える手続きを行なったからである。1282年には陸奥守になり、1284年の時宗の死の時に出家するが、時宗の死を契機に「弘安徳政」という大規模な改革を遂行するが、その中途に平頼綱に討たれる。
北条一門ではない陸奥守に泰盛が就任していることが目につくが、これは北条氏一門のエリートに与えられる、という陸奥守の属性といささかも矛盾しないことに注意する必要がある。逆に泰盛の陸奥守就任は、泰盛が陸奥守で処遇されるほど北条一門に入り込んでいたことを示すと考えられよう。極楽寺流が没落してから、というもの、極楽寺流に近い金沢流や政村流北条氏の期待を一身に担っていたのが、得宗時宗外戚で、重時や政村や実時と縁戚関係にあった泰盛だったと考えられる。
泰盛が二月騒動でどういう立場であったのか、というのが大きな問題となるだろうが、これも明らかではない。二月騒動で時宗に距離をとった、という見方もあれば、二月騒動以降泰盛がもっとも強く時宗を支えた、という見方もある。二月騒動で失脚した泰盛の兄関戸頼景との関係が問題になるだろうが、霜月騒動で頼景は助かっているところをみると、頼景と泰盛の関係は必ずしも良好ではなかったのだろう。
時宗と泰盛の間の疎隔が大きくなるのは連署北条義政の失脚後ではないか、という気がする。あくまでも今は「気がする」レベルだが。泰盛と頼綱の対立はかなり古くからあったようで、そこをしっかりと自分なりに概念化しなければならない、と今は考えている。
少なくとも泰盛の陸奥守任官は、陸奥守の属性の変化を示すのではなく、泰盛が陸奥守に任官するほど、北条一門の中で重きをなしていたことの証明であると考える。足利泰氏陸奥守であったこととは全く意味合いが異なるのである。