鎌倉時代の「陸奥守」北条維貞

北条維貞は大佛流北条宗宣の嫡子として1285年に生まれる。式部少丞に1301年17歳で任ぜられたのを振り出しに1303年19歳で右馬助、20歳で引付衆、22歳で評定衆、23歳で五番引付頭人となる。父宗宣や祖父宣時と比べると叙爵、要職就任年齢が極端に若くなっており、大佛家の家格上昇を示すものである。
四番引付頭人を辞して無役の時の1314年に陸奥守に任ぜられ、翌年には六波羅探題南方として上洛する。北方は常葉流北条範貞。しかし維貞が執権探題であった。北方は原則として極楽寺流が担当することになっていたので、大佛家の維貞は南方となったのだが、家格序列を超えて大佛家が実権を掌握する体制が出来ていたのである。
維貞は海賊鎮圧や悪党鎮圧に功績を残し、1324年に鎌倉に戻り、評定衆に返り咲く。維貞が鎌倉に戻り、一方探題であった範貞が一人になった間隙を衝いて後醍醐天皇による「倒幕計画」、いわゆる正中の変*1が起こる。
1326年には連署となり、修理大夫に転じる。しかし翌年には病に倒れ、連署辞職の翌日に死去。
維貞の主な実績としては、六波羅探題時代に西国の海上警固を実施したことが挙げられる。この海上警固が行われようとしていた1319年に六波羅管轄下にあった三河・伊勢・志摩・尾張・美濃・加賀の六カ国を関東の管轄に入れたことについて網野善彦氏は『蒙古襲来』(小学館、1974年)において「沈滞したこの時期の幕府政治のなかで維貞は珍しく意欲的な動きをみせている。凡庸な得宗高時を擁する側近たちのなかに、この維貞に対する警戒心がわいてこなかったとはいえぬであろう。案外それは連署貞顕あたりだったかもしれない」としている。維貞の退任後、たちまち悪党の振舞は「先年ニ超過」したという。
しかし私は維貞の失脚とは思えない。維貞は連署に就任する準備のために鎌倉に帰ったのであって、彼の実績が評価された結果鎌倉に呼び戻されたのだと考える。貞顕が維貞の従弟の貞直に自分がかかわっていた寺のことを託していることを考えると、両者の間に隙間があったとは思えない。網野氏は金沢貞顕に対する評価がかなり低いのでよけいに実績を上げた維貞と貞顕の間に何らかの対立を見いだしたいのであろうが、そもそも六波羅探題はあくまでも要職の一つであって、維貞は寄合衆・連署・執権に昇るべき存在だったのである。悪党・海賊鎮圧の功績をもって連署に就任するために鎌倉に戻った、と考える方が自然だろう。これはおそらく貞顕の執権就任とも関わっていたと思われる。
この時期、北条高時の後継をめぐって暗闘が勃発していた。高時の後継をめぐって高時の弟の北条泰家得宗の地位を欲し、高時・泰家の母もそれを望んだが、得宗御内人の長崎高綱は北条氏一門の長老金沢貞顕を執権に就任させ、それに泰家が反発して貞顕は10日で引退に追い込まれた、という事件である。これを嘉暦の騒動という。結局執権に極楽寺流赤橋家で北条長時の曾孫にあたる赤橋守時が就任し、維貞が連署になる。執権は終身職であることを考えると、維貞よりも若い守時の執権就任は維貞の執権就任の可能性を閉ざすものであったろうが、本来は貞顕の連署として維貞が意識されていた可能性もなくはない。
もっとも永井晋氏は『金沢貞顕』(吉川弘文館、2003年)において「北条茂時・甘縄顕実・大仏貞直といった現任の引付頭人を超えて大仏維貞が連署に就任したことは、嘉暦の騒動後の執権・連署が「貧乏くじ」のように考えられていたことを如実にあらわしているといえよう」としている。私見では北条茂時は維貞の次の連署であり、まだ連署就任にはキャリア不足、甘縄顕実は貞顕の兄で、貞顕に「超越」された、という段階で微妙な位置づけだったろう。大佛貞直に関しては維貞が本家筋で、貞直は大佛家の庶流なので、維貞を差し置くわけにはいかない。必ずしも「大抜擢」とも言えないだろう。
維貞については筑前国怡土荘に所領を持っていたことが特筆される。現在の福岡市今津付近で、対外交易港であり、また対元戦争の最前線基地でもあった怡土荘に所領を持っていたことは、維貞の占める位置づけがうかがえよう。

*1:河内祥輔氏が「倒幕計画」の実在を疑問視しているが、私も河内氏の疑問に同意する。詳しくは9月6日のエントリ「金沢貞将は誰を威圧したのか」参照。