大佛貞直の陸奥守就任をめぐって−陸奥守の地位は低下したのか−

大佛貞直の「陸奥守」就任というのは、歴代の「陸奥守」に比べると段違いに見劣りがするように見える。というのも、それまでの「陸奥守」は一門の有力者に継承されてきたのであり、最終的には連署やそれに次ぐ人々に受け継がれている。貞直は得宗外戚でもなく、探題職についたこともなく、せいぜい引付頭人であったにすぎない。それも一番引付頭人になったことはない。その貞直がなぜ「陸奥守」になれたのか。考え方は二つある。一つは「陸奥守」の価値が下落している可能性である。「陸奥守」が大佛家の家職になってしまった、という見方である。もう一つは大佛家の地位が向上し、「陸奥守」を独占し得る地位に上昇した、という可能性である。
永井晋氏は『金沢貞顕』の中で正四位下に昇進した連署金沢貞顕が「愚身官途の事、所望の分は御免なく候」と書状にしたためたことについて「貞顕が所望したのは陸奥守であろう」と指摘している。「しかし、陸奥守には正和三年十月二十一日から大仏維貞が在任していたため、この希望は叶わなかった」ということである。陸奥守はまだ大佛家に固まったわけでもなかったのである。しかし現実には陸奥守は宣時・宗宣・維貞と継承されていて、連署にふさわしい地位と目されながらも、実質的には大佛家に固定され始めていたのである。
維貞が死去した後、陸奥守に就任したのが、大佛家庶流の貞直である。これはおそらく維貞の嫡子の家時がまだ若年であり、大佛家の惣領となるには経験不足であったことから、暫定的に貞直が継承したのであろう。貞直は家時成人までの中継ぎだったのではないだろうか。そして家時成人までのワンポイントリリーフであった貞直がおそらく維貞の死去と同時に陸奥守を継承したことは、事実上陸奥守は大佛家の家職となりつつあり、また大佛家が陸奥守を独占し得るほどに地位を向上させていたことを示しているのである。
大佛家が鎌倉幕府の中で占めた地位も、貞直の陸奥守継承から見えてくるが、同時に鎌倉幕府のジレンマも見えてくる。北条高時政権が北条時宗政権の形式を踏襲し、きわめて形式主義的に傾き、家格秩序の維持に腐心し続けたことは、細川重男氏が『鎌倉政権得宗専制論』において指摘している所である。この指摘に従うならば、大佛家の家格も固定されていることになる。
一方で陸奥守を金沢貞顕が所望したことにも現れているように、大佛家が陸奥守を継承する家格秩序はいまだ固まりきっていない。大佛家にとって「陸奥守」を継承することは自明のことではないのである。大佛家に器量にかなう人材がいなければ、陸奥守の職は他家に移動する可能性を孕んでいた。維貞死去の時点では貞顕の長男で六波羅探題南方を務めた金沢貞将がいた。維貞死去後にはしばらく連署は空席であったが、連署に就任した右馬権頭北条茂時も、執権煕時の子で、父祖に政村・時村と陸奥守経験者がいる、という点で有力な候補者たりえた。また執権赤橋守時も家祖が陸奥守長時であることを考えれば、十分候補たりうる。大佛家としては家時が若年であることは、陸奥守継承の危機でもあった。貞直が中継ぎとして大佛家惣領と陸奥守を継承することは、実力主義形式主義の論理がせめぎ合っている様を象徴しているように思われる。そして陸奥守をめぐるこのジレンマは、そのまま得宗政権がかかえるジレンマでもあったのだ。