知里幸恵日記を読む 2 大正11年7月18日

大正11年7月18日の日記の考察の続き。日記を再掲する。

宮下長二といふ青年が私を訪ねて来た。あんまり真面目な人に見えなかった。が、それは私の間違ひかも知れぬ。トメさんと文通してるといふ。
研究するんぢゃなくて、たゞ好奇心からアイヌの歴史をきゝ、生活状態を見、心理状態を観察しやうといふのだ。なんだか私は侮辱をさへ感ずる。しかしいくらものずきでもよく訪ねてくれたと感謝する。

今回は「研究」ということにスポットを当てる。幸恵が金田一に対して非常に敬愛の念を抱いていたことは、この日記をみる限りほぼ間違いがないだろう。そして金田一も幸恵をたいへんかわいがり、いろいろ気を使っていることもうかがえる。
ここで「研究」そのものが持つ学術対象への差別的な視線について考える。
幸恵の弟の真志保が北海道を論文執筆のために調査していたときのことである。たまたま事故死したアイヌの老女の葬儀に行きあった真志保は参列者に何気なく事情を聞いていると、「故人の娘の夫と称する男が来て、研究なぞ止して呉れ、と言つた」。そこで真志保は遺族の心情を思いやって書いている。「最愛の肉親を奪はれた悲しみの心には、見馴れぬ旅人の好奇的な眼は、死者の霊を狙ふ悪魔の眼」である、と。
そもそもこの真志保が書いた論文は、深瀬春一が書いた「ウェンベ・ブリ−登別村においてアイヌの葬式を見て」という、深瀬が真志保の祖母加之の葬儀での見聞を書いた文章に対する批判文「ウェンベ・ブリ?−本誌所載深瀬春一氏論文を駁す」という文である。真志保はこの文において深瀬の事実関係の過ちを一つ一つ正し「判然と憶えてゐない事は書かなければいいのに」と批判する。この文章を書くきっかけは喜田貞吉がこの深瀬文を見つけ「君の一家に関連せる事項及びそれについて誤れるアイヌ観の発表せられあるを」知らされ、知里の言葉によれば「その余りにも出鱈目な筆遣ひは、当時私よりもむしろ私の周囲を激昂させて、是非抗議の文をものせよと迫られた」ということである。喜田貞吉は真志保の上京に援助を申し出た一人で、真志保は喜田を囲む青年達の一員であった。真志保のこの文は金田一を通じて深瀬文が掲載された『旅と伝説』に載せられた。編集部は「かなり感情的に走つて居るので(同情はするが)、一寸掲載をためらった」そうであるが、金田一の権威には抗しきれなかったのかもしれない。
真志保はこの論文の最後を次のように締める。

世には学問の為には汎ゆるものを犠牲にしてよいといふ封建的な考え方が横行してゐる。そこにどれだけ多くの悲劇が隠されてゐることであらう?学者の心なき筆に傷つけられても、大多数の者は弱き者の常として泣寝入りに終らなければならぬ。果してこれでよいのであらうか!
思ふに学問の価値は絶対ではない。それは社会との関係に於て、又人類の幸福を齎す限りに於て、相対的な価値を有するのである。従って他人の心を傷つけつゝする学問は無価値である。それは悪魔の学問に他ならぬ。

幸恵が「侮辱をさへ感」じた「たゞ好奇心からアイヌの歴史をきゝ、生活状態を見、心理状態を観察しやうといふ」姿勢は、どこか深瀬論文を思い出させる。深瀬論文はまさに「好奇心」からアイヌの葬儀を見て、それを書き記した。研究の手続きを踏まず、自分の思ったことをそのまま書き残した。結局幸恵が「真面目な人に見えなかった」理由として挙げた「研究するんぢゃなくて、たゞ好奇心から」と批判した姿勢は真志保において「他人の心を傷つけつゝする学問は無価値」という形に昇華される。幸恵は「しかしいくらものずきでもよく訪ねてくれたと感謝する」としているが、真志保は「それは悪魔の学問に他ならぬ」とより強く「たゞ好奇心からアイヌの歴史をきゝ、生活状態を見、心理状態を観察しやうといふ」のを拒絶しえたのには、真志保が最高学府である東京帝国大学に所属していたことと無関係ではないだろう。
真志保はこの論文を執筆していた最中の昭和9年に英文学科から言語学科に転籍している。