知里幸恵日記を読む 3 大正11年6月29日

知里幸恵日記』を読んでいく企画。とりあえず和人のアイヌへの視線を中心にみていく。
幸恵は『アイヌ神謡集』を著すために東京の金田一京助邸に滞在していた。金田一アイヌ学に関して言われることは、金田一アイヌ語にのみ関心があり、現状のアイヌに対する関心が薄かったことである。金田一アイヌ学に関心を持ったきっかけは、上田万年の日本語創成プロジェクトにおいて、アイヌ語の研究を岩手県出身の金田一に任されたことである。ある意味金田一アイヌ語研究の動機は他律的なものではあったのだ。萱野茂参議院議員金田一に対しては「有名なアイヌの研究家が最近死んだよね。アイヌの人々のあいだから、一つとして悲しみの声は聞かれなかったよ」と辛辣な見方をしていた。これは金田一の学問、ひいては近代日本の学問体系の限界が現れている、とみることはできる。
しかし幸恵の日記をみる限り、金田一は全くアイヌの現状に無関心であったわけでもなさそうだ。

私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ。神の定めたまふた、それは最も正しい道を私たちは通過しつゝあるのだ。捷路などしなくともよい。なまじっか自分の力をたのんで捷路などすれば、真っさかさまに谷底へ落っこちたりしなければならぬ。
あゝ、あゝ何といふ大きな試練ぞ! 一人一人、これこそは我宝と思ふものをとりあげられてしまふ。
旭川のやす子さんがとう/\死んだと云ふ。人生の暗い裏通りを無やみやたらに引張り廻され、引摺りまはされた揚句の果は何なのだ! 生を得ればまたおそろしい魔の抱擁のうちへ戻らねばならぬ。
死よ我を迎へよ。彼女はさう願ったのだ。然うして望みどほり彼女は病に死した。何うしてこれを涙なしにきく事が出来ようぞ。心の平静を保つことに努めつとめて来た私もとう/\その平静をかきみだしてしまった――だからアイヌは見るもの、目の前のものがすべて呪はしい状態にあるのだよ――。先生が仰った。おゝアイヌウタラ、アウタリウタラ! 私たちは今大きな大きな試練をうけつゝあるのだ。あせっちゃ駄目。ぢーっと唇をかみしめて自分の足元をたしかにし、一歩々々重荷を負ふて進んでゆく……私の生活はこれからはじまる。

旭川のやす子さん」が幸恵とどういう関係があり、どういう人生を送り、どういう最期を迎えたのは、ここではわからない。「人生の暗い裏通りを無やみやたらに引張り廻され、引摺りまはされた揚句の果」「死よ我を迎へよ。彼女はさう願ったのだ。然うして望みどほり彼女は病に死した」というところから、幸恵自身も経験したアイヌへの差別・抑圧の中で心身ともにぼろぼろになっていったことがうかがえよう。「病に死した」とあるから自死ではなかったようだが、近いものであったのではなかろうか。「心の平静を保つことに努めつとめて来た私もとう/\その平静をかきみだしてしまった」というところからも幸恵の受けた衝撃がうかがわれる。
「平静をかきみだしてしまった」幸恵に金田一が掛けた言葉が「――だからアイヌは見るもの、目の前のものがすべて呪はしい状態にあるのだよ――」。金田一アイヌが置かれた状況は熟知していた。そして心を痛めてはいたのであろう。ただ金田一は一人の人間としてはアイヌの置かれた現状に心を痛めることはすれ、東京帝国大学教授としての地位と権威をアイヌ全体のために使うことをしなかった、もしくはできなかった。それは金田一一人の問題というよりは「帝国大学」そのものが有する問題であっただろう。また金田一アイヌ語の研究は、生きているアイヌ語を残すことよりも、過去のユーカラの保存にその関心が向けられていた。幸恵が東京に来た事情も幸恵の持っている語学力で、カムイユーカラを『アイヌ神謡集』として刊行することにあった。
このような金田一の限界、ひいては近代日本の学問の限界は、実際に生活し、精いっぱい生きている人々の「生」を見つめることがあまりなかった、ということである。象牙の塔にこもって社会の現実に目を向けず、データや理屈をこねまわす。現実に生きている人々の願いを直視せず、自分の頭の中の理屈を優先して一人一人の事情を、理屈の前で押しつぶす思考、我々は金田一を一方的に非難できない。