荘園制論を理解するために

黒田俊雄の学問的体系がマルクス主義に立脚しているという、自明の前提を再確認してきた。弁証法唯物論に即して黒田の論を整理すると、下部構造としての荘園制論、上部構造としての権門体制論、そして社会的意識諸形態としての顕密体制論がある。
マルクスは相互の関係について次のように説明する。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

これに黒田の用語を当てはめると次のようになるだろう。

生産諸関係の総体は社会の経済的機構(である荘園制)を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造(である権門体制)がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態(である顕密体制)は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式(である荘園制)は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(権門体制と顕密体制)を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

つまり荘園制が土台である。この土台が上部構造を制約する。その社会にいきる人間は、その社会の制約を超えて行動することはできない。つまり近代的な価値観を中世の人間に求めるのは、木に依りて魚を求めるようなものなのである。
また変革のあり方について次のように説明する。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。

下部構造を構成する社会の物質的生産諸力が発展すれば、その分配をめぐって生産諸関係の中で矛盾が発生する。それが発展の桎梏となった時に社会革命が到来する。下部構造の発展があって、上部構造がくつがえる。それは「徐々」にくつがえる緩やかな社会革命もあれば、急激な社会革命もある。常に動乱によって社会革命が起こるのではない。そして下部構造の発展をもとに社会革命が到来し、それに伴って上部構造も変革されるのである。
分析の際に考慮すべきことについて次のように説明する。

諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。

「経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革」が下部構造で、「人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態」が上部構造および社会的意識諸形態であることは論を俟たないであろう。
従って本来は荘園制論が黒田テーゼを理解するキーポイントにならなければならない。
黒田は9世紀から11世紀における荘園制内部の変革に着目する。それは「一言でいえば緩慢ながら個別小経営の自立の条件を準備すること」(「荘園制社会」『黒田俊雄著作集 第五巻 172ページ)であった。9世紀から11世紀にかけては、「強大な専制国家権力によって中央貴族のもとに集中され発展した高度な生産用具と技術が、次第に地方へ拡散しはじめ、それが田堵層のもとに蓄積」(同172ページ)されたこと、耕地の拡大が「原野の開墾のほかに、荒廃田・易田など劣悪なまたは不安定な耕地の水利を改良して、耕地としての安定性を確保することに大きな努力が払われた」(同174ページ)こと、「農業技術が次第に集約農業に適合的な横行へ発達をみせた」(同175ページ)ことである。これらの特質を通じて農業生産力は上昇し、それを基礎に田堵が姿を消して、新たな階級と身分が形成された。それが名主で、その出現は「耕作者の耕地に対する権利の伸長・確立という本質的に重要な発展があった」(同178ページ)と説明する。そして次のようにまとめる。

広範に自立的農民が出現してきた結果、荘園および国衙領においては、かつての田堵の段階と異なり、零細な農民経営までが直接に耕地の保有者として種々の形態において地代を課せられることになった。すなわちここに、それまでの収取にみられる過渡的な性格の収取から、はっきりと封建地代の性格をもつ収取ヘの移行が起こった。(同184ページ)

こうして始まった個別的小経営農民がひろく成立してそれに規制されて封建支配が展開するが、そこに地域差が現われる。畿内においては個別的小経営農民つまり名主が展開するのだが、関東や九州では農奴制支配を本質とする在地領主制が展開し、その基礎の上に強力な武士団が成立した。それは生産力による違いであって、畿内の先進地域では小経営農民層が一般的に成立するが、関東や九州のような後進地帯では在地領主層がはるかに支配的であった。石母田領主制論においては、西欧と同じく日本でも辺境の粗野ではあるが新鮮な活力によって封建社会への展開が進められるという、辺境理論が応用されていた。黒田はそれを否定したのである。その背景には、おそらくはアジア的生産様式論の展開がある。日本と西欧の類似点と、日本と中国の相違点を論じる石母田領主制論に対する批判的視座をここにみることができようか。
黒田は在地領主制については次のようにまとめる。

在地領主制は、九世紀以来の田堵層の動向からみれば、農民的小経営の自立度がよわくしかも中央貴族権力が解体した後進地域により典型的に発達した。田堵層から名主層への農民の個別的小経営の展開を封建社会成立の論理的起点におくばあい、田堵の上層が自ら領主化する在地領主制の途は、したがって日本封建社会成立史にとって、論理的には派生的・副次的な途であるといわねばならない。事実在地領主制は、こののち政治的には主要な局面をつくりだしたが、日本社会の全体をおおうことはついになかったのである(同190ページ)。

そして在地領主制の形成につれて在地領主層による荘園寄進が顕著になってくる。11世紀から12世紀当時の荘園の増加は、後進地帯の在地領主層のみならず、畿内やその周辺でも寄進という名目で荘園に組み込まれていくことで果たされていた。
やがて荘園は不輸・不入の特権の獲得を通じて国衙の権限から独立した私的支配領域となったのである。そのようにして成立した荘園は内部の支配組織を再編強化を進めた。この段階に至って荘園は封建所領として政治的にも確立された表徴ともなる。このような荘園所有者を黒田は「荘園領主」あるいは「権門勢家」と呼び、中世社会つまり権門体制を構成した支配階級に措定するのである。
荘園領主にはそれらの膨大な家産・家政を処理するために家政機構や文書様式や家司制の発達がみられる。このような私的な家政機関が国政に影響を及ぼすのがこの時代の政治的な特色であって、それは荘園制という土地制度、つまりは下部構造に規定された上部構造が「権門勢家」なのである。
院政は、公の地位を退いた上皇が国政に恒常的に関与するという「異常な」政治のあり方だが、そこが形式的にも天皇から執政を委託されていた形をとる摂関政治とは根本的に異なる。これは天皇家自身が私的な荘園所有者=権門勢家になった事実を基礎として、天皇という古代の体制の中心的存在を超える家長としての院に支配される形になったのである。つまり荘園制に対応して天皇家も私的な家政機関を有する権門勢家に変質を遂げたのである。摂関家も摂政や関白という地位よりは摂関家の家長である「大殿」であることが重視される。このように「天皇」や「摂政」や「関白」や「将軍」であることよりも、「家長」であることが重視される権門勢家による権門体制の成立は、荘園制社会の成立という経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にくつがえり、「天皇」や「摂関」の地位が低下して強大な権門勢家となった天皇家の家長である院(=治天)が権力を振るう院政が成立するのである。
黒田は国家権力そのものである暴力装置を中心をなす軍事機構についても論及している。軍制がすたれ、早くから軍事機構を維持し得なくなると武士を検非違使押領使や追捕使に任命していたが、11世紀になると寺院大衆や神人の強訴とか各地の反乱に際しては権門の侍であった武士に出動を命じざるを得ず、国衙領における在庁官人も武士の棟梁に組織されつつあり、その点でも国家機構は重大な転換をみせていたのである。
このような武力のありようが保元・平治の乱を通じて平氏政権を樹立させる。平氏によるクーデタについて黒田は「清盛はこの段階で、平氏政権が他の権門勢家とくらべて武士の軍事的権力であることにこそ根本的な特色と存在理由とがあることを、はっきり自覚した」(同223ページ)が、平氏は広範な自立的な在地領主を主従関係によって組織する面で未熟であり、平氏政権が源頼朝によって打倒される原因ともなっているのである。
源頼朝が一気に武士を集め得た理由として黒田が挙げるのは以仁王の令旨である。『吾妻鏡』に伝わる王の令旨は「挙兵を壬申の乱に比し、以仁王自ら天武天皇の地位において即位ののちの勧賞まで説いていることに注意すべきで、当時東国では以仁王が生存して『新皇』となっているとさえ信じられていたのであった。頼朝が源氏の『貴種』であったことは、この上ではじめて効果を発揮し、源氏家人の再編成も可能になった」(同230ページ)と評価する。
頼朝の権力は、その発足段階では「事実上独自の国家をつくりあげる可能性をもったところの、豪族的在地領主層を基礎にした地方政権であり、内乱という条件のなかでは事実上独自の国家にもひとしい権力組織として存在した」(同230ページ )が、頼朝は結局国家をつくる可能性を放棄し、後白河院に要請して寿永二年の宣治をもらい、それ以降「東国を拠点としながらも全国的なものになったが、しかし、そうなったとき彼の権力組織は新たな特色をもってはいるが権門体制国家の政治と機構に適合的なものとなっていた」(同233ページ)と評価する。
黒田は鎌倉幕府の基本的性格を次の四点にまとめる。

第一に鎌倉幕府は、階級的には在地領主層を基礎にし、その階級的利害のための政権という性格をもっていた。(中略)
第二に、鎌倉幕府は東国という地域的限定性を濃厚にもつ政権であった。(中略)
第三に鎌倉幕府は、政権の組織形態としては結局権門勢家の私的家政支配の形態をとった。御家人制度は、他の権門勢家に比べてきわめて強固な主従関係をなし、西欧のレーン制度にも対比される特色をもったが、(中略)権門が荘園・知行国を支配し、従者に荘園・公領内の各種の職=所領を恩給することでは同じことであった。(中略)
第四に、鎌倉幕府が国政に関与する形態は、あくまで一個の権威者としてのものであって、頼朝が国政を独裁するということはなかった。(中略)
さて以上の四点をさらに約言すれば、鎌倉幕府は所詮東国の在地領主層を基盤にした一個の権門組織であるということができるであろう。(同245〜247ページ)

承久の乱については黒田は次のように評価する。

この乱は結局は幕府と院庁政権という二つの権門の対決であり、後者の犠牲において前者が西国に進出したにすぎないため、基本的にはふるい支配体制に対する新しい体制の勝利というほどの意味はもたなかったと考える。もちろんこの戦乱自体が院庁政権の勝利でなく幕府の勝利となったことには、この段階における政治的支配権を決定するものが究極は組織的武力の優越性であるという条件から一定の必然性があり、また在地領主の政治的地位のいっそうの安定という面で歴史的意義は認められなければならない。(同258ページ)

黒田にとっては鎌倉幕府の成立は「ふるい支配体制に対する新しい体制の勝利」ではなかったのである。つまりは「経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる」社会革命ではなかったのである。鎌倉幕府は荘園制社会にかわる新しい経済的基礎の変化につれて、権門体制を打倒したものではなかったのである。黒田の記述は十四世紀前半で終わっている。実は鎌倉幕府の滅亡に至らずに『荘園制社会』は終わるのである。この点がおそらくは最大の問題点で、鎌倉時代までは荘園制社会で見通せても、室町時代の下部構造については、この著作では述べられていない。
黒田は中世の始まりを院政に置いた。それがこの著書の大きな特色であろう。それは史的唯物論に基づく限り、自然であった。院政こそ「経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる」社会革命の結果成立した上部構造だったのである。その社会革命は11世紀から始まっており、田堵が解体して個別的小経営農民や在地領主が出現し、彼らの運動によって荘園が寄進され、あるいは権門勢家が荘園を組織して経済的基礎の変化を行う。それにつれて天皇制が解体し、権門勢家が出現する。院政とは、私的権門となった天皇家の家長が天皇を凌駕する体制なのだ。
こう考えてくると、私には本郷和人氏の次の黒田批判にも全面的には同意できない。

唯物史観が万能でないことは、すでに共通認識となって久しい。荘園が院政期に成立して土地私有がここに現れるというならば話は別であるが、もちろん荘園制はそれ以前から存在する。土地の領有も部分的ながらずっと古くから見て撮れる。下部構造はどちらにせよ、時代区分の決め手には成り得ない。(中略)
院政という政治の体制も、天皇権限を摂政・関白が代行するか、上皇が行使するかの差異であって、原理的に目新しいものではない(本郷和人氏『武力による政治の誕生』講談社メチエ、218ページ)

上で見てきたように9世紀から11世紀の、かなり長期にわたる荘園制社会の展開の結果、律令制という上部構造全体が徐々にくつがえって成立したのが、権門勢家の一つに変質した天皇家の家長による院政なのである。院政は「天皇権限を摂政・関白が代行するか、上皇が行使するかの差異」ではない。朝覲行幸では天皇が父たる上皇に対してへりくだる。院政が「天皇権限を摂政・関白が代行するか、上皇が行使するかの差異」にすぎないのであれば、朝覲行幸における上皇天皇の位置の逆転が起こるはずはない。朝覲行幸にみられる上皇天皇の地位の逆転は、院政が「天皇権限を摂政・関白が代行するか、上皇が行使するかの差異」というレベルのものではなく、黒田が述べたように「天皇家が、在位の天皇を最高の中心的存在とする古代の体制から在位の天皇をこえる権限をもつ家長に支配されるものに転化した」ことを如実に表しているのである。父の千葉常胤よりも息子でも都の官職をもつ東胤頼を公の場では上席に据えた源頼朝は、ある意味院政をリードした院よりも保守的だった、といえるかもしれない。