院政のはじまりー白河院ー

院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。
これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。
発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。
白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。
しかし白河上皇自身、院政を敷いて政権を掌握しようと考えたわけでもあるまい。白河上皇の目標はあくまでも善仁親王の即位であり、そのための方便として自らが譲位した、という方が実情に近いだろう。そして白河上皇の行動は、時代が時代であれば、そのまま白河上皇の引退という形で決着していたはずだ。しかし存在が意識を決定する。白河上皇の意図を超えて白河上皇の立場は、院政の成立、つまり「経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる」社会革命の時期が到来していたのである。
堀河天皇即位に応じて関白藤原師実が摂政に就任した。天皇の外祖父としての摂政就任である。これが社会革命の時期でなければ、そのまま師実が摂関政治を行って白河上皇の出現する機会はなかったであろう。
現実に堀河天皇が成長し、また師実が子息の師通に関白の位を譲り、堀河天皇ー師通体制が成立する。
この体制が大きく揺るぐのは1096(嘉保3)年に起こった「永長の大田楽」(嘉保3年は12月に永長と改元するため)である。3月、摂津国住吉者の完成供養において、結縁しようとした数千人の群衆が熱狂し、興奮した数十人が池に飛び込んで死亡する事件が起きた。その死の「ケガレ」に触れた僧侶や楽人が都に戻り、朝廷や関白邸に出入りしたことで「ケガレ」が政権中枢に及んだのである。堀河ー師通政権は事態の深刻化を防ぐために神事の中止を命令したが、それに反発する人々はっ田楽を囃しながら威圧行動をとった。6月、祇園御霊会が近づくと、再び田楽は盛り上がり、今度は内裏や院庁まで巻き込まれた。白河は楽器を提供するなど、積極的に関与し、一方師通は黙殺した。この永長の大田楽は朝廷の過差の禁止令を無視する動きであり、堀河ー師通政権の足下を揺さぶっただろう。
1099(康和元)年師通は急死する。1095(嘉保2)年に延暦寺の強訴に際して師通が都の守備を命じた源頼治の軍勢が延暦寺の神輿を射たため、延暦寺の態度の硬化を招き、今回の師通の死は「神罰」と喧伝され、摂関の権威は低下した。
師通の後を継いだのは子息の忠実であったが、22歳と若年で、官職も権大納言であったために、関白の就任は見送られた。しかし堀河が名君の誉れ高く、摂関が置かれなくても、天皇親政の形で従来の政治形態が維持されるかに見えた矢先、堀河は1107(嘉承2)年29歳で死去する。次の皇位継承実仁親王の弟の輔仁親王か、堀河の子息の宗仁親王かであった。輔仁親王35歳、宗仁親王5歳。白河は宗仁親王即位を強行する。鳥羽天皇である。こうなると摂政が必要になる。
鳥羽天皇の摂政を誰にするか。候補者は鳥羽天皇の伯父の藤原公実と内覧の地位にあって、事実上の関白であった忠実である。白河の母茂子は公実の伯母にあたる。白河にとっては従弟にあたる公実の摂政就任を望んでいたようだが、院別当源俊明が強引に介入して堀河天皇の関白をそのまま鳥羽天皇の摂政という、いわば常識的な線で摂政が決着したのである。
忠実の摂政就任のもつ意義は大きかった。摂関の地位を決定するのは白河の好むと好まざるとに関わらず、白河に落ち着いたのだ。しかも白河の側近が摂関の地位に介入する。摂関政治は終わりを告げ、院が人事の最高決定権を有する院政がここに成立する。
1120(保安元)年、白河は突如関白忠実の内覧の地位を停止する。関白の主な権限は内覧の地位とともにある。内覧とは、天皇に奏上される文書を「内覧」つまり予め見ることのできる権限である。天皇への奏上を予め見る、ということは、その文書に関しては内覧が介入することになる。内覧が不適切と考えた文書は天皇のもとには届かない。つまり太政官天皇の相互関係を掌握する、ということである。その地位を停止されたことは事実上の関白罷免である。ここに摂関の院に対する従属は決定的となった。
白河は忠実の次の摂関に忠通を任命した。ここに父子相承する「摂関家」が成立する。
ここで一つ指摘をしておくならば、史的唯物論の立場との整合性である。私は先に「『経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる』社会革命の時期が到来していた」と書いた。しかしここまで述べてきたのは、白河と師通・忠実の争いである。「これが社会革命なのか」といぶかる見方もあるだろう。例えば白河は新たな荘園制社会を代表する勢力で、師通・忠実は旧体制を代表する勢力である、などのように。このような下部構造還元論をここではとらない。下部構造が変容し、巨大な上部構造が徐々にくつがえる中、「日本」という〈共同体ー即ー国家〉の中の朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉のヘゲモニーを誰が掌握するか、の激烈な闘争なのである。それは多分にささいな契機で変容する複雑な過程を経る。白河が新しい体制を代表し、忠実が旧体制を代表して、白河の権力掌握と忠実の没落を描き出すのは、下部構造還元論であり、図式的な把握に過ぎる。それは史的唯物論とは無関係な機械論的唯物論である。
実際に白河と忠実の確執は小さな問題である。とてもではないが、「社会革命」のイメージで語られるものではない。白河が摂関家の力を積極的に削ごうと考えて忠実を追放したのであれば、それはまだ「社会革命」のイメージで語られてもいいだろう。しかしどうも白河にそのような意図は見られない。白河が積極的に抑圧したのは忠実一人であって、忠通ではない。両者になにがあったのか。
鳥羽天皇中宮を決める際に、最初に中宮に上がったのは公実の娘の璋子である。その間に顕仁(崇徳)と雅仁(後白河)が生まれている。実は鳥羽に入内する前に璋子は忠通との縁談があった。しかし璋子の素行に関する噂を理由に忠実が拒否した、という。忠実は璋子と藤原季通との密通を自身の日記に記している。さらに璋子は早くから白河に養育されており、それも原因だったかもしれない。
一方忠実の娘の泰子(初めは勲子となのっていたが、泰子で統一する)を鳥羽に入内させる話も上がるが、それも忠実は拒否する。忠実は泰子が鳥羽に入内するのは建前で、実際に泰子を求めているのが白河である、と疑ったためだという。忠実の中には白河とその周辺の素行の乱れに対して拒否感が増していたのであろう。
ところが一転、鳥羽からの求めに応じて泰子を鳥羽に入内させる話が持ち上がる。今度は白河の熊野詣の留守中に話が進んだため、白河の影は排除されている。忠実としてはそこに安心をしたのだろう。しかし面子をつぶされた白河は激怒した。しかも泰子の入内話が上がった時には、白河の意中の皇位継承者は璋子の生んだ顕仁親王であった。しかも顕仁親王の父は白河という噂も流れていた。泰子の入内は顕仁親王の立場を悪くする。しかもそこには鳥羽と白河の対立も関係していた、とも言われる。忠実の失脚は、同時に鳥羽に対する威圧でもあった。白河が忠実を失脚させたのは、単なる個人的な恨みでしかなかった、と言っていいだろう。そこに摂関家の力を削ぐ、というような大きな話があったようには思われない。
しかし白河の存在は白河個人の意思と無関係に政治の中心に押し上げられて行く。摂関は白河の軍門に降った。また白河は北面の武士を組織し、平正盛らを重用して暴力機構も掌握する。白河は結果として〈共同体ー内ー第三権力〉掌握のヘゲモニー争いに勝利し、当時の国家権力機構の掌握に成功したのである。天皇を退位した上皇法皇)という地位で、国政の実権を掌握した白河は、当時出現していた権門勢家のヘゲモニーを掌握し、ひいては権門体制国家の「主頂」に躍り出たのである。