武士とは何か

朝廷は長い間常備軍を持たなかった、と言われる。朝廷の常備軍に替わって朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉の強力機構として機能したのが武士団である。武士とはどうやって発生したのだろうか。地方の乱れに対応して大名田堵などの有力農民が武装して在地領主=武士となったのだろうか。実は違う。それでは単なる「武装した有力農民」である。「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる。
武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である。かつて拙ブログで軍事貴族に触れたとき、「軍事貴族は貴族なのか」という疑問があった。そもそも「貴族」とは何か。
「貴族」とは端的にいえば官位を持つ人々である。事実上従六位以下は事実上機能していなかったので、六位以上が「貴族」となる。五位以上で清涼殿への昇殿を認められた人々が殿上人で、それ以下が地下人である。殿上人になると「卿」と呼ばれる。そして三位以上になると「公」となる。「公」と「卿」を併せて「公卿」といい、さらに参議以上が議政官として政治に携わる。(この議政官を「公卿」と称するー以上訂正。)。我々は「平安貴族」という時、どうしても議政官もしくは「公卿」を念頭に置くが、実際には実務を担当する下級貴族がいる。五位、六位の地下人である。彼等もまた貴族である。そのような貴族の中に多くの賜姓皇族がいた。天皇の子孫で、「平」や「源」の姓を賜り、臣籍降下した人々で、村上源氏を筆頭に朝廷内部で勢力を扶植していた。桓武平氏高棟流など多くの貴族が存在したが、その中で清和源氏河内源氏摂津源氏桓武平氏の高望流、特に伊勢平氏が武力を以て台頭してきた。承平・天慶の乱で活躍した平貞盛藤原秀郷源経基の子孫が「軍事貴族」として知られている家系である。
ここでは軍事貴族の一例として源頼義を取り上げる。
源頼義清和源氏の傍流河内源氏の2代目で、清和天皇から6代目となる。清和天皇の孫の経基王の時に武蔵介となる。経基王の出自に関しては、清和天皇の子どもの貞純親王の子というのが定説だが、陽成天皇の孫とする説もある。武蔵介として赴任すると、郡司の武蔵武芝と争い、兵を出して武芝を攻め、平将門との行き違いから京へ逃げ帰り、将門の謀反を報告する。当初は誣告に問われるが、後に疑いが晴れ、将門征伐の副将軍となる。天慶の乱に際しては藤原純友討伐の一員となる。こうして私兵を駆使する軍事貴族の地歩を固めた経基王は、晩年源を賜姓され臣籍降下する。
経基の後を継いだ源満仲は当初は源高明安和の変を契機に藤原氏と結びついて受領を歴任し、軍事貴族としての地位を向上させる。晩年は摂津国多田に入り、そこの開発領主となる。
満仲の嫡子の源頼光藤原氏の家司として都に勢力を伸長させるとともに、「辟邪」を担当する武家権門として重きを成す。頼光は酒呑童子、子孫の頼政は鵺退治の説話で知られるが、これは彼等の「辟邪」の性質が現われている、と考えられている。
一方次男の頼親は大和国、三男の頼信は河内国に土着する。頼信は藤原道長に仕え、受領として甲斐国に赴任中に平忠常の乱を平定し、東国に勢力を伸ばすこととなる。
頼信の嫡子の源頼義は、忠常の乱の平定で活躍し、忠常の乱の平定に失敗した平直方の娘と結婚、直方の屋敷を譲られる。当時は屋敷はしばしば娘を通じて婿に継承されることが多かった。直方の屋敷は鎌倉にあり、これ以降鎌倉が河内源氏の東国の拠点となる。頼義が軍事貴族としての名をとどろかせたのが、当時の「日本」という〈共同体ー即ー国家〉の境界領域であった陸奥国の行政官の陸奥守に任ぜられたことである。本来文官である陸奥守に頼義が任ぜられたのは、当時、陸奥国の北部に存在した「エミシ」との抗争が活発化していたからである。エミシの有力者の奥六郡の俘囚の安倍頼時と、陸奥藤原登任の対立が高じて、頼時を抑圧するために軍事貴族の中でも力のあった源頼義陸奥守に投入された。途中から頼義は鎮守府将軍を兼任し、陸奥国の文武の頂点に立って安倍氏との戦いに臨むことになる。
1062年、出羽国の仙北三郡の俘囚清原氏の協力を得て安倍氏を打倒した頼義であったが、伊予守に転任し、鎮守府将軍もエミシ出身の清原武則が任ぜられることになり、「夷を以て夷を制す」という政策に還ることとなった。
頼義は安倍氏との12年戦争の中で東国の武士と関係を深め、武家の棟梁としての地位を確立して行く。逆に言えば、皇族出身の頼義と結びつくことで、「武装した農民」は頼義の家人として認定され、朝廷つまり〈共同体ー内ー第三権力〉の一角を構成する強力機構として位置付けられるのである。ここに我々が連想する「武士団」が成立する。
頼義の嫡子の源義家は再びエミシの清原氏の内紛に介入するが、結局源頼義に殺された藤原経清安倍頼時の娘の間に生まれた藤原清衡に奥羽の覇権を握られ、河内源氏の奥羽への進出は頓挫する。清原氏の内紛への介入(いわゆる後三年の役)が朝廷によって「私戦」と見なされ、陸奥守を罷免された義家は、10年間の雌伏(陸奥国受領功過定に通らなかったため)を経て白河院への昇殿を許され、白河院政の強力機構の重要な一角を担うことになる。
その後河内源氏は内紛を経て弱体化し、替わって平正盛・忠盛父子の伊勢平氏が新たな軍事貴族として、武士団を朝廷という〈共同体ー内ー第三権力〉の強力機構として結びつける役割を担うことになる。軍事貴族及びその配下の武士団が中央政界に大きな影響力を発揮するのは保元の乱及び平治の乱である。