保元・平治の乱

軍事貴族のプレゼンスが向上するのは、この二つの戦乱である。これを通じて軍事貴族は中央政界における存在感を強めて行く。
藤原忠実の娘の泰子の入内をめぐって白河法皇鳥羽天皇の関係が疎遠となる。一旦は白河主導で泰子を鳥羽天皇のもとに入内させようとしたが、忠実が断る。にも関わらず、数年後、白河が熊野詣で不在の間に鳥羽天皇主導で泰子入内が計られ、面子を潰された白河は忠実を追放する。これによって摂関が院に従属する存在となったのだが、同時に白河は鳥羽に不信感を抱き、鳥羽は白河に不満をつのらせることになった。
白河は当時19歳の鳥羽天皇を退位させ、自分が認めた顕仁親王を即位させる。崇徳天皇である。鳥羽天皇は白河と崇徳を憎み、『古事談』によれば「叔父御」と崇徳のことを呼んだと言われる。
1129(大治4)年、白河は77歳で死去する。その後、天皇直系尊属として朝廷の主導権を掌握したのは鳥羽上皇である。1139(保延5)年、鳥羽と美福門院の間に躰仁(なりひと)親王が生まれ、2年後、鳥羽は崇徳を退位させ、躰仁親王を即位させる。近衛天皇である。美福門院は崇徳をなだめるために崇徳の皇子の重仁親王を養育し、将来の皇太子に含みを持たせていた。
病弱だった近衛天皇が後継のないまま死去し、後継者として重仁親王の名前が挙がるが、鳥羽と美福門院はもう一人養育していた守仁王の父で、崇徳の同母弟の雅仁親王の即位を決定する。雅仁親王は帝王の器でないことは鳥羽自身も知悉しており、あくまでも英邁な守仁即位をにらんだ中継ぎであった。後白河天皇である。
後白河天皇の運命は皮肉にも鳥羽の死去によって急展開する。後白河即位に不満をつのらせる崇徳と、鳥羽に気に入られながら、近衛との関係が悪く、近衛死後に近衛呪詛の噂を立てられ失脚した藤原頼長が結びつく。後白河を支える信西は鳥羽死後二日目に河内源氏源義朝伊勢平氏平清盛摂津源氏源頼政、足利源氏の源義康らを招集し、崇徳側に圧力をかける。頼長と崇徳の連絡に当たっていた源親治が捕えられ、崇徳謀反の証拠として後白河は藤氏長者の象徴たる東三条殿を没収、それに対抗して崇徳は治天の拠点であった白河北殿を占拠し、頼長と近かった源為義平忠正らが集まる。
戦いの帰結はあっけなかった。源義朝が強行に夜討を主張し、それが容れられる一方、上皇に弓をひくことはないだろう、と高をくくっていた頼長は夜討を退ける。武力を上皇の権威に向けるか否かの葛藤は、信西と義朝の決断であっさり解決され、さらに白河北殿に火が放たれ、崇徳らは逃亡し、崩壊した。政治的な勝利を目指した崇徳らであったが、軍事貴族保有する強力機構が機能すると、政治的な動きはほとんど無力になることを印象づけた事件であった。
乱後権力を掌握した信西は、特に平清盛の武力を背景に「保元新制」と言われる政治改革を遂行して行く。荘園領主国司との紛争の解決を図ったこの新制によって荘園公領制が成立する画期となった、とされている。
美福門院は信西に対し、守仁即位を要求し、信西との交渉の結果、後白河は守仁に譲位し、後白河院政を実現することで妥結する。二条天皇である。しかし二条は幼少時から美福門院に育てられたこともあって、後白河との関係は疎遠であった。美福門院は自身に近い藤原経宗らを中心に二条親政派を形成し、後白河と対立する。信西は鳥羽の寵臣であり、美福門院にも近いため、後白河は独自の支持勢力を形成しようとし、藤原信頼を登用する。信頼は源義朝と関係が深く、信頼を重用することで、義朝の強力機構を後白河は手に入れることになった。ここに朝廷の政治は三つに分裂する。
信頼と経宗は信西排除で利害が一致し、信西打倒のクーデターが行われる。信西派の平清盛が留守の間に源義朝らが信西を襲撃し、信西は逃れるも自害、信西派は一網打尽にされる。しかし信西が排除されると、義朝の強力機構を背景とした信頼に不満をつのらせる経宗らは信頼の下に身柄を確保されていた二条天皇後白河上皇を逃がし、信頼・義朝追討宣旨を清盛に下す。
戦闘は兵力でまさる清盛が圧勝し、信頼派は壊滅する。実権を握った二条派は後白河への圧力を強めるが、後白河は清盛に命じて二条派の経宗らを逮捕、流罪に処す。こうして後白河派も二条派も壊滅し、平清盛の中央政界における地位が高まって行くのである。