最初の武家政権−平清盛

保元・平治の乱を勝ち抜いて朝廷の主導権を掌握した平清盛は、平治の乱のきっかけになり、また平治の乱後も続く後白河上皇二条天皇の争いに中立的な立場をとりつづけた。平清盛の義妹の滋子が後白河との間に生んだ憲仁親王皇位に就けようという滋子の兄(つまり清盛にとって義兄)の平時忠や清盛の弟の平教盛らが二条を退位させ、憲仁親王皇位に就けて後白河の院政を盤石たらしめようとしたときには、激怒して後白河院政を停止する二条に同調し、一方で後白河にも配慮を示すなど、双方からの信頼を勝ち得て行った。
そのような中、二条天皇が死去し、皇子の順仁親王践祚、即位する。六条天皇である。践祚時にはまだ満年齢では7ヶ月と史上最若の天皇で、近衛基実が摂政として政務をみることとなった。翌年、基実が急死し、基実の後を継いだのが弟の松殿基房である。基実の継承していた摂関家領が基房に移らないよう、基実の妻の盛子(清盛の娘)に相続させ、摂関家領の掌握に清盛は成功した。清盛は太政大臣を花道として政界から引退し、病気に倒れて出家した。政情不安をおそれた後白河は憲仁親王の即位に踏み切る。高倉天皇である。
回復した清盛は福原に移り、日宋貿易を推進、必要なときにしか上京せず、それによって後白河院政との距離を置くことで自立性を保ちながら、親平家派の公家や、滋子を通じて後白河院政に介入する形で国政に介入した。また六波羅に陣取った嫡子の平重盛が諸国の武士を家人として組織し、国家的な軍事警察権を掌握した。このような清盛政権を高橋昌明氏は「六波羅幕府」と呼んでいる。
後白河と清盛の緊密な関係は滋子の死によって破綻した。鹿ケ谷の陰謀が実在したかどうかは分かっていない。はっきりしているのは、後白河の近臣の藤原成親が殺され、法勝寺の執行の俊寛が鬼界ヶ島に流罪になり、赦免されることなく現地で死去したことである。成親は重盛の妻の兄であり、俊寛平頼盛の妻の兄弟である。重盛も頼盛も後白河との関係が近く、清盛との関係が疎遠になり始めていた、という背景がある。これ以降、平宗盛が後継者としてクローズアップされる。
重盛はこの事件以後、存在感を失い、やがて死去する。重盛の死によって後白河と清盛の関係は破綻する。重盛死去の前月、清盛の娘で、近衛基実の妻として基実の遺領を管理していた盛子が死去し、後白河は盛子の遺領を没収し、さらに重盛の死に際しては重盛の知行国であった越前国を没収している。さらに近衛家から松殿家に摂関家嫡流を移行しようと、近衛基通をさしおいて、松殿師家を権中納言に任ずるなど、清盛を公然と挑発する。
1179(治承3)年11月、豊明節会の日、清盛は数千の軍勢を率いて西八条の館に入り、後白河を鳥羽殿に幽閉、後白河院政を停止、太政大臣以下の議政官、諸国受領の大幅な入れ替えを断行した。その後高倉は言仁親王に譲位、安徳天皇が即位して清盛は天皇の外祖父となる。清盛は左大臣藤原経宗や右大臣九条兼実らと協調し、平家派の公卿(平時忠土御門通親など)を通じて政権を運営した。しかし後白河の妹の八条院を結集格とする反平家ネットワークは八条院に養育されていた以仁王(後白河皇子)と源頼政の挙兵を引き起こし、さらに園城寺興福寺以仁王に同調するなど、反平家の動きが止まない中、清盛は福原に遷都する。本郷和人氏は朝廷から自立する王権としての自己を確立した福原幕府こそ鎌倉幕府の直接の先行形態であるとしている。
しかし源頼政の手引きで八条院の蔵人となっていた源義朝の弟の行家が諸国に以仁王の令旨をばらまき、それに呼応するように源頼朝らが挙兵する中で清盛は死亡した。それからわずか5年後、壇ノ浦で平氏は滅びるのである。
以上、清盛の生涯を院政との関係を重視して叙述してきた。このような視点から検討した清盛の生涯に関して問題となるのは、1太政大臣に昇った理由、2平氏政権はいつ確立するのか、3平氏政権を幕府と言いうるのか、ということであろう。
1については、清盛が白河法皇落胤という伝説がある。それが事実かどうかは確かめる術もないのが実情である。永井路子氏はその短編集『絵巻』の中におさめられた「すがめ殿」の中でこの話を取り上げている。白河の寵姫祇園女御の妹をめとった平忠盛、だが忠盛の妻は白河と男女の関係に有り、忠盛に嫁いだときにはすでに身ごもっていた、という。その噂を聞きつけた忠盛のライバル源為義は忠盛をからかう。やがて忠盛の長子が生まれ、長子は極めて丁重に育てられ、長ずると異常な出世をみせる。「法皇様のご落胤ならこの程度の扱いは当然ですな」という忠盛の声が聞こえてきそうな中、忠盛の嫡子清盛の顔は忠盛にそっくり、という落ちである。この問題についてはこれが事実かどうか、という議論、そして清盛が太政大臣にまで昇りつめたのは白河の落胤であることが原因か、清盛の持つ武力の存在感か、という議論があるだろう。清盛がその官位のスタートが従五位下左兵衛佐という異例のスタートを切ったこと、太政大臣という高位に昇りつめたこと、この二つは分けて考えることが必要ではないか、と私は考えている。当時から清盛が白河の落胤である、という話はあり、それが真実であったとすれば、清盛が従五位下からスタートしたことの意味は説明できる。太政大臣への就任も、その影響と考えられないではないが、本郷氏の指摘するように平氏政権の成立を出生にその原因を求めてしまうと、見失われる側面は多いと思う。仮に落胤であることが事実だとしても、それだけで清盛の出世を説明するのは、清盛政権の重要な特質、つまり武力による政権掌握という側面を見失うように思われる。
2については、清盛がいつ〈共同体−間−第三権力〉の一部から、〈共同体−間−第三権力〉として自立するか、であろう。いくつか画期は考えられようが、少なくとも太政大臣になった段階では平氏政権とは呼び難いだろう。この段階では後白河院政を支える、という立場でしかない。太政大臣辞任に先立つころ、平重盛東海道東山道山陽道南海道の軍事警察権を委任された段階で平氏政権確立とみる見方もある。権門体制論に忠実に従うとここになるだろうか。国家的な軍事警察権を掌握した段階で、「国家守護」を担当する武家権門として成立するからである。清盛が病から回復して福原に移ってから、に注目する見方もできる。福原に移ることによって後白河院政から自立することができるからである。福原にいる清盛と六波羅にいる重盛が連携し、さらに親平氏派公卿や滋子を通じて後白河院政の政権運営に介入する、という、自立性に着目する見方である。この場合、六波羅と福原のどちらに重点を置くべきか、というところで「六波羅幕府」説と「福原幕府」説に分かれるのだろう。私は「福原幕府」の方に説得性を感じる。単純に考えれば、「平氏幕府」の頂点に立つ清盛は福原にいることに意味があるのであるから。
3については「幕府」とは何か、という問題がある。これはその論者が「幕府」という概念で何を念頭においているのか、ということになる。清盛政権を「幕府」と認定する立場としては、清盛政権は自立する王権であるから、幕府とするべきだ、という本郷氏の意見や国家的軍事警察権を掌握し段階で幕府とみなすべきだ、とする高橋氏の意見に対して、経済基盤や勢力の広がりに着目して幕府とは言い難い、という上横手雅敬氏の見解もある。この点については今のところ自分なりの見解をまとめられずにいる。現時点では福原にいる清盛に着目して「福原幕府」という本郷氏の意見に従っておきたい。