「幕府」の「差分」−源頼朝

平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。
鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。
1180年、頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府南関東の軍事政権であることに着目する見解。
1183年、頼朝が寿永2年の宣旨を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。
1184年、頼朝は公文所問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。
1185年、頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。
1189年、頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握したことに着目する見解。
1190年、頼朝が諸国惣追捕使に任ぜられる。これは頼朝が国家的な軍事警察権を掌握したことに着目する見解。
1192年、頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。これはその後の幕府のトップが征夷大将軍であることに着目する見解。
おそらく「幕府」というものを最も厳密に解釈すれば1192年説が正しくなるのだろう。鎌倉・室町・江戸の幕府に共通するのは、トップが征夷大将軍であることだからだ。しかしそれで鎌倉幕府の本質を見ることは出来ない、ということで、1192年説はほとんど省みられることはない。
権門体制論の立場、すなわち鎌倉幕府は権門体制の中で国家守護の役割を分担している、という考えからすれば1190年、二つの王権論の立場、すなわち頼朝は朝廷に対して武力を編成原理とする新たな「王権」を樹立した、という考えからすれば1180年となるであろう。そしてその二つの立場からすれば、清盛の樹立した政権はまぎれもなく「幕府」なのである。六波羅幕府というのは、平重盛に国家守護を担当させるところに「幕府」たるものを認めるのであり、権門体制論の立場からすれば、間違いなく「幕府」となるはずである。福原幕府というのは、清盛が後白河院政から自立的な王権を樹立しようとしたことに「幕府」を認めるのであり、二つの王権論からすれば、まさに「幕府」であることになる。他のどれをとっても、ほぼ清盛の政権で実現していることであり、あえて実現していないことを言えば、全国的な軍事動員権の掌握の有無に関して言えば、清盛の政権は西国に偏っていたし、何よりも清盛は征夷大将軍にはなっていない。しかし「幕府」の本質を権門体制論的な、あるいは二つの王権論的な、相反する立場から判断しても清盛の政権を「幕府」とした方が、一貫している。私は高橋昌明氏と本郷和人氏が主張する清盛の「幕府」説に従いたい。さらに言えば私は本郷氏の福原幕府説により説得性を感じている。さらに言えば私は室町時代の「鎌倉府」も「第二鎌倉幕府」と考えるべきだと思うし、さらに言えば懐良親王の「征西将軍府」も「九州幕府」と呼んだ方がより有効な分析を行えると思っている。
次の問題は、清盛と頼朝の差異は何であったか、である。ここで出される頼朝と清盛の差異を「幕府」の差分だ、と主張する見解もあるだろう。しかしそこを「幕府」の差分としてしまうと、「幕府」の概念が複雑になりすぎ、まさしく「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」をそれ以外から析出するための概念でしかなくなると考える。中世日本における国家形態を考える上で、そのような概念を使うことにどれほどの意義があるだろう。
清盛との違いを見るために頼朝の朝廷との関わりをみてみる。
頼朝は河内源氏源義朝と熱田大宮司藤原季範の娘の由良御前の間に生まれる。1158年に鳥羽法皇の皇女で後白河の異母姉で、後白河の准母を務めた統子内親王が皇后(尊号皇后、非妻后皇后)になったのをうけて設置された皇后宮の権少進を振り出しに、統子に院号が宣下され上西門院となってから上西門院蔵人となり、やがて右近衛将監を経て二条天皇の蔵人となった。この経歴からみると、頼朝は父の義朝とはかなり異なる人生を歩もうとしていた、もしくは歩まされようとしていたことがわかる。平治の乱に際して補任されたのが右兵衛権佐である。思えば平清盛も左兵衛佐を振り出しにしている。おそらくは義朝は清盛に対抗すべく頼朝に清盛と同様の官途に付けようとしていたのだろう。しかし平治の乱によって頼朝の運命は大きく狂う。頼朝は平治の乱伊豆国流罪となり、前右兵衛権佐として30年間暮らすことになる。その間に頼朝は挙兵を経て一気に関東の主となるが、その人生はむしろ無位無官のまま関東に下向し、関東の主となった義朝や義平の人生を彷彿とさせる。「佐殿」と呼ばれてはいただろうが、頼朝に対する視線は「京都の官職に就いている貴公子」というよりは、「頼義公の血を引く御曹司」というイメージであったろう。本来平清盛的な累進をするはずだったのだが、運命のいたずらから、頼朝は清盛とは異なる形で「幕府」の基礎を樹立したのである。
しかし頼朝が東国の反乱軍という立場を乗り越え、公的な「王権」あるいは〈共同体−間−第三権力〉として発展するためには、朝廷との関係を通じて自己を朝廷と並ぶ〈共同体−間−第三権力〉として〈共同体−即−国家〉の中に位置付ける必要がある。でなければ、朝廷の影響から一切脱して新たな〈共同体−即−国家〉を作り出してその中の〈共同体−間−第三権力〉となるかである。しかし後者は非現実的であった。成立期鎌倉幕府の中で起きた上総介広常誅殺事件は、前者と後者の軋轢の生み出した政局であったろう。
頼朝と朝廷を結びつける紐帯は、はじめは「以仁王令旨」である。しかし頼朝は以仁王令旨をもたらした八条院蔵人にして、頼朝の叔父に当たる行家を冷遇し、以仁王を利用しないことを明白にした。頼朝は早くから後白河に直接働きかける方向を選んだのである。以仁王にこだわったのは、頼朝の従弟の源義仲であった。義仲は上京後に以仁王の皇子北陸宮の即位を強く主張し、高倉上皇の皇子、つまり西国に行ってしまった安徳天皇の兄の即位にこだわる後白河との対立を深める。結局高倉上皇の第四皇子尊成(たかひら)親王が即位する。
後白河は頼朝に東海・東山道の支配権を認める「寿永二年の宣旨」を頼朝に下し、追いつめられた義仲は後白河と武力衝突を経て頼朝の派遣した源義経に敗死する。その後頼朝は平氏への攻撃を行なうとともに、自ら知行国主となり、一門やかつての命の恩人の平頼盛らを国司に任命する。このころ京下りの官人によって頼朝の官僚制も整備され、〈共同体−間−第三権力〉としての体裁を整えて行く。
義経との対立を契機に頼朝は義経に頼朝追討の院宣を下した後白河を武力で威圧し、守護・地頭の設置と親頼朝派の公卿の登用を要求する。かつて清盛が行ったやり方を頼朝も踏襲しているのである。頼朝がつくりあげたのは、鎌倉という遠隔地にあって、普段の朝政を頼朝派の公卿に行わせ、何かある時には軍勢を派遣し、あるいは自ら軍勢を率いて威圧し、自らの要求を通して行くというスタイルである。
義経死後、頼朝は義経を匿った罪を問うために奥州合戦に出る。このとき、頼朝が頼義故実に従ったことをもって、内乱期御家人制を清算して、新たな御家人制を構築したのだ、という見解が川合康氏より出されている。そしてそれを荘厳するために奥州藤原氏をしのぐ征夷大将軍が要求された、と考える。本郷氏は藤原氏打倒のために使えるものは何でも使ったに過ぎない、と批判した。実際頼朝が要求したのは「征夷大将軍」ではなく「大将軍」であって、「征夷大将軍」は朝廷が選んだことが明らかになっており、少なくとも「征夷大将軍」の称号そのものに何らかの意味を見出す見解は否定されている。「大将軍」とは本郷氏の指摘するように「将軍」を超えるものでしかないだろう。極端な話「鎮守府大将軍」でもよかったのではあるまいか。頼朝にとっては「鎮守府将軍」を超越できさえすれば何でもよかったのだろう。それどころか、そもそも奥州藤原氏と「大将軍」が関係があるのかすらあやしい、と今では考えている。頼朝は使えるものはいろいろ使って自らの権力を荘厳することに務めた。一方で朝廷の官職を使って荘厳し、もう一方で頼義故実を持ち出す。頼義故実は頼朝にとっては自らが東国の「王」であることを示す格好の機会であっただろう。頼義故実征夷大将軍は私は分けて考えるべきだと思っている。
頼朝は「征夷大将軍」を要求したのではなく、「大将軍」を要求したことが明らかになった。それについて本郷氏は「『征夷』にこだわっていた人々は、今度は『大将軍』とはどういうものであるのかを考えねばならない、などと言い出した。大将軍とは将軍を超える存在、というに過ぎないではないか」(『武力による政治の誕生』197ページ)とまとめている。そこで「大将軍」とはどういうものであるのかを考えてみよう。
端的に言えば本郷氏の説明する通り、「将軍を超える存在、というに過ぎない」。この見解に異論はない。「将軍」とはどういう存在であったか。大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という言葉(漢の周亜夫の言葉)にあるように、将軍には軍事に際して天皇大権から独立しているのである。朝廷に接近しながら朝廷から自立するための朝廷に対する交渉のカードとして、将軍職に付随する非常大権が頼朝には必要だったのだろう。征夷大将軍紀古佐美桓武天皇から受けた勅許は「宜しく、副将軍、死罪を犯すあらば、身を禁めて奏上すべし。軍監以下は、法によりて斬決せよ」とあった。軍防令によれば大将軍は本来在地の下士官が軍令に従わない場合、死罪以下の刑に処しても良いと定められている。征夷大将軍は軍監にまで非常大権が及び、副将軍も拘禁する権限があった(以上高橋富雄氏『征夷大将軍』22ページ)。頼朝サイドは朝廷に対する自立性を担保する権限として「大将軍」を要求し、親頼朝派の九条兼実以下の朝廷はその中でも一番権限のある「征夷大将軍」に任命した、というところだろうか。「大将軍とはどういうものであるのかを考えなければならない」として考えると、むしろ頼朝の政権が自立した「王権」であることを裏付けているかのようである。
しかし頼朝にとってはあまり意味を見出せなかったのだろう、やがて征夷大将軍を辞任して「前将軍」ではなく「前右大将」という肩書きに戻してしまう。しかし頼家に至り、再び征夷大将軍が担ぎ出され、実朝、九条頼経を経て宗尊親王に至るまで武家政権のトップは征夷大将軍という形が定着するのである。ここに至れば「征夷」という部分に何の意味もないことは明白であろう。おそらくは頼朝が最後に任官した官職として機械的に継承されていたのだろう。
皮肉なことに「征夷」は「尊王攘夷」の高まりの中で注目され、「征夷」を実行できない「征夷大将軍」のレゾンデートルが問われることになるのだが、逆に言えばそれまで「征夷」というのは注目されてもこなかったのだろう。
(追記)
ちなみに以前国家論について述べた時に〈共同体−間−第三権力〉について述べていなかったので述べておく。当該箇所にも追記した(「2010-06-22 - 我が九条」)。
エンゲルスの第三権力論はあらゆる歴史的国家の本質に関わる根本発想であるが、近代国家とそれ以前とでは第三権力の形態が異なる。近代の第三権力は市民社会の様々な階級権力とは実体的にも独立しており、階級利害とは独立した形で存在している。これが完成した形態での〈共同体−内−第三権力〉である、これに対して古代や中世では〈共同体−内−第三権力〉は未発達で、都市共同体や農村共同体などの経済的利害を管理調整する公的機関や在地領主権力として存在する程度であり、むしろ最大かつ最強の都市共同体もしくは最大かつ最強の領主権力=国王権力として存立する。一つ一つの権門は〈共同体−内−第三権力〉のカテゴリーに属するだろうが、朝廷や幕府などはむしろ〈共同体−間−第三権力〉あるいは〈共同体−間−国家〉として定義づけることができるだろう。(参考:滝村隆一氏『アジア的国家と革命』)