中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後−

中島久万吉は斎藤実内閣の商工大臣。斎藤実内閣は犬養毅内閣が5・15事件で首班暗殺という事態を受けて組閣された内閣。犬養毅暗殺後は同じ政党の党首が就任する慣例に従って元老西園寺公望は当初は立憲政友会総裁の鈴木喜三郎を首班にしようとしたが、政党政治の継続は当時の政治情勢を考えると、再び軍部によるテロを惹起する危険があった。軍部は検察出身の法務官僚平沼騏一郎を推薦する。しかし西園寺と昭和天皇は平沼のファッショ傾向を嫌い、リベラルで軍部にも抑えの効く人物として、前朝鮮総督で元海軍大臣、海軍予備役大将の斎藤実を首班に指名する。
斎藤実は一旦は国際連盟脱退と満州国承認など、軍部の意向に沿いながら、国際連盟復帰を目指そうとする。その動きに対して様々な政局が仕掛けられた。その一つが中島久万吉がかつて足利尊氏を評価した随筆攻撃である。十三年前の同人誌に掲載された随筆を、講談社の雑誌「現代」が中島に無断で転載し、それが波紋を呼んだ。逆賊足利尊氏を評価するとは何事、というわけである。この一件を見ても「敵を尊敬するという発想」から北朝を抹殺している、と考えている人の無知ぶりが知れる。
この問題に執拗にからんだのは菊池武夫貴族院議員であった。菊池は南朝方で知られる(と言っても室町時代には足利氏より肥後国守護職に任じられているので、「逆賊足利氏の家来」であったのだが)菊池氏の子孫で陸軍予備役中将である。
菊池やその周辺の攻撃により中島は商工大臣を辞任し、その「成果」に勢いづいた菊池は翌年には当時の通説であった天皇機関説攻撃を行い、美濃部達吉貴族院議員辞職、国体明徴運動による大日本帝国憲法体制の事実上の停止と軍部独裁体制につながって行くことになる。
中島辞任では斎藤内閣を倒閣できなかった平沼らは検察を動員して帝人事件という「政治とカネ」の事件を捏造し、ついに斎藤内閣を総辞職に追い込む。ちなみに帝人事件は被告人全員が無罪となった大規模な冤罪事件であった。
そう言えば教育基本法の改定に関連して、今上天皇は次のように述べている。「1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」
「このような時代」をつくりあげるのに菊池議員の存在は大きかったといえよう。「このような時代」の到来に、勤王を隠れみのに天皇を政局に利用する政治家と、それと結びついたマスメディアが大きな役割を果たしていたことも我々は心にとどめなければならない。