鎌倉幕府否定論再論

鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。
鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。
一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明確にした、ということである。したがって一一八〇年説を支える幕府観は、南関東の軍事政権、ということになる。
一一八三年説を支える史実は「寿永二年の宣旨」によって頼朝の東国支配が京都政権によって公認されたことを意味する。したがって一一八三年説を支える幕府観は京都政権からの公認ということになる。それまでは反乱軍でしかなかったので、それは幕府ではない、という見解である。
一一八四年説を支える史実は公文所の設置である。家政機関を設置して、頼朝の扱う文書を管理する事は、徹底した文書主義がとられている中世という時代にあっては、支配や交渉にあたっては必要であった。特に寿永二年の宣旨によって頼朝は東国の行政権と司法権を付与されたわけであり、その権利を実効化するためには公文所の設置がおこなわれなければならない。一一八四年説を支える幕府観は家政機関の存在である。
一一八五年説を支える史実は文治の勅許すなわち守護・地頭の設置である。平氏を滅ぼした頼朝は弟の源義経と対立し、義経は逃亡する。義経の探索という名目で国ごとに軍事・警察権を保持する役職としての守護と、荘園に現地支配を任務とする地頭を設置した。これによって頼朝の権力は全国規模となった。一一八五年説を支える幕府観は全国支配を行う軍事政権である。
一一八九年説を支える史実は奥州藤原氏の滅亡である。治承寿永の内乱(いわゆる源平合戦)においては頼朝の軍勢は東国の御家人に限定されていた。奥州合戦においては頼朝は南九州にいたる全国の御家人に動員をかけ、奥州藤原氏の滅亡によって本州の北端まで頼朝の権力が行使されることとなった。一一八九年説を支える幕府観は全国紙は意全国支配を行う軍事政権である。
一一九〇年説を支える史実は、頼朝が日本国惣追捕使に任命された事である。守護・地頭というのは義経逮捕の名目で設置された、臨時の役職だったのである。頼朝は国家の軍事・警察権を恒久的に行使しうる根拠を手に入れたのである。一一九〇年説を支える幕府観は、恒久的な国家的軍事警察権の行使を保証する体制である。
一一九二年説を支える史実は征夷大将軍の補任である。頼朝は征夷大将軍に任命された。「将軍」というのは天皇大権を代行しうる存在であり、頼朝はかねてから「大将軍」の地位を臨んでいたが、後白河院の死去によって念願の「大将軍」の地位を手に入れた。一一九二年説を支える幕府観は征夷大将軍を頂点に頂く軍事政権である。
つまり「鎌倉幕府」なる実体は存在しないのである。源頼朝御家人を組織し、動員するために構築したシステムを後世の我々が「鎌倉幕府」と呼称しているわけであって、「幕府」という言葉自体、儒学者が「将軍の居所を中国では幕府というから、日本の将軍の居所も幕府と呼ぼう」としたのであって、「幕府」という言葉そのものに定義が存在するわけではない。だから「鎌倉幕府は実在しなかった」という議論は二つの意味を持つ。一つは「頼朝の作り上げたシステムを鎌倉幕府と呼ぶのはおかしい」という意見である。もう一つは「そもそも頼朝が作り上げたと言われるシステムそのものが幻だ」というものである。後者はかなり難しいが、前者のような否定論は鎌倉幕府においては存在しないが、他の歴史治承事象においては多く存在する。