対訳『椿葉記』27

その比赤松左京大夫入道没落して天下もしづかならず。御悩も一方ならず。世中はうかうかとし年も暮ぬ。あくる年正月十八日内府薨給ぬ〈勝定院と称号申〉。思ひよらずいとあさまし。いまは御子もなければ、御相続の事如何とさたあり。管領、畠山、諸大名評定して、勝定院の御連枝の中を八幡の宝前にて御孔子を取けるに、青蓮院門主〈勝定院舎弟〉御鬮におりけるとなむ、将軍になしたてまつりぬ。御果報のふしぎさも神慮にてあれば、めでたき世のためしにてまします也。やがて次第の御昇進ありて室町殿と申す。いつしか人もおぢ恐たてまつりて御威勢おもければ、天下もおさまり海内もしづかなり。

赤松左京大夫入道-赤松満祐。父義則の死に際して遺領の配分で播磨守護を一門の持貞に配分し、自らは備前・美作の守護のみを安堵された事に怒って館を自焼して領国に引き上げた。持貞は御所の女房との不適切な関係が明らかになり、切腹させられ、播磨守護は満祐に安堵された。一説には畠山満家の陰謀という。
内府-足利義持。尻にできたおできを掻きむしった事でおできをこじらせ、死去に至った。
管領畠山-畠山満家
御連枝-青蓮院門跡義円、大覚寺門跡義昭(ぎしょう)、梶井門跡義承、相国寺僧永隆の四人。普通に考えれば義持の同母の弟で最年長で僧としての実績も上の義円ですんなり決まりそうなのに敢えてくじ引きにしたのは、義円に反対する人物がくじ引きを決定し、実行した義持、満済畠山満家、山名時熙の中にいた事をうかがわせる。案外満済ではないか、と私は考えている。真言宗満済にとっては天台座主を経験した天台の義円よりは真言宗の義昭の方がよかっただろうし、満済と義教の微妙な距離感、特に後小松と伏見宮の関係をめぐる両者の綱引きなどを見ているとその感を一層深くする。
めでたき世のためしにて-還俗して征夷大将軍という先例は護良親王というよろしくない先例があった。だから「神慮」を持ち出して良き先例にしようとしているのだろう。
いつしか人もおぢ恐たてまつり-村田氏は「下尅上の甚しい当時代の廷臣武将から軽侮せられた」(109ページ)とするが、現在の研究では室町時代中期には下剋上の甚だしいとまでは言えないと思う。

そのころ赤松左京大夫入道が没落して天下もしずかではなかった。天皇のご容態も重篤であった。世の中は落ち着かない様子で年も暮れた。明くる年正月十八日内府が薨去した。思いもよらない事で、大変な事であった。いまは御子もいないので、御相続の事はどうしようかという事で、管領や諸大名が話し合って勝定院のご兄弟の中から八幡の宝前で孔子を引いたところ、青蓮院門主が当たりくじであったという事で将軍にした。御果報の不思議さも神慮であるので、めでたい世の先例である。やがて順調に昇進して室町殿となった。いつしか人々も怖じ恐れ奉って、御威勢も重くなったので天下もおさまり、静かになった。