論文講読

一連の永井和氏「http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/guniansyo.html#ftn43」を読む一連のエントリ。ここではいわゆる「陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付−以後副官通牒と略す)」を見てきた。史料を再掲する。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス

この史料は「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ」「是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ」「関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ」という箇所に注目し、軍部の「従軍慰安婦」強制関与の証拠である、とか、軍は従軍慰安婦の強制連行を取り締まる立場にあったことの証拠である、とか言われてきた史料である。永井氏はこの「通牒」と関係の深い警察史料を分析することで

副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。

という結論を導き出した。
この「副官通牒」を見ると三つの好ましくない事例が記されている。1「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」、2「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」、そして3「募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノ」である。
このうち1の事例は、永井氏によると、群馬・茨城・山形で積極的な募集活動を行なっていた神戸の大内という業者だったという。「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付)によると、大内が語っていたのは概ね次のような内容だったという。

「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」
→軍医務局では戦争よりもむしろこの性病の方が恐ろしいと言うような状況で、そこにこの施設問題が起こった。
「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ」「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」
→材上海特務機関が我々業者に依頼するところとなり、約三千名の酌婦を募集して送ることとなった。
「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ目下二、三百名ハ稼業中デアリ兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」
→すでに本問題は昨年十二月中旬より実行に写り、目下二、三百名は稼業中であり、兵庫や関西方面では県当局も諒解して応援している。
「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ軍ガ直接ヤルノデハナイガ最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ之ヲ使用シタ場合吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」
→営業は我々業者が出張してやるので、軍が直接やるのではないが、最初に蔑視の一花券(兵士用二円、将校用五円)を軍隊に、営業者側から収めておいて、これを使用した場合に、我々業者に各障屏画渡すこととして、これを取りまとめて軍の経理部からその使用料金を受け取る仕組みとなっていて、直接将兵より現金を受け取るのではない。軍は軍として慰安費のようなものから、その費用を支出するものらしい。
「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」
→本月二十六日には第二回の酌婦を軍用船で送る予定で目下募集中である。

つまり「在上海特務機関」が業者に依頼したものである、ということである。これは前回見た「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」に対応する。そして「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」というのは、3の「募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノ」と言われていた、和歌山県で誘拐行為として検挙取り調べを受けた「大阪の貸席業主金澤」ら三人を指している。
和歌山県で起こったこの事件は、自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」と言いながら、料理店の酌婦に上海行きを勧めた、という事件である。その真偽を確かめるために和歌山県警田辺警察署は長崎県警外事課や大阪府警九条署に照会した結果、「「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放した」ということらしい。
この事件の背景にある「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」の内容について永井氏は

上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。
大阪府兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。

とまとめている。
長くなってきたので、次回は大内の活動に対し警察はどう対処したのか、という点について永井氏の論文を読んでいきたい。