2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧

史料を先入観無く読み込む 井芹重秀請文(石清水文書 鎌倉遺文一二二九七号文書)

史料を何の先入観もなく読み込むことは意外と難しい。史料を先入観なく読み込むことの難しさとしてしばしば挙げられる史料を挙げてみたい。 肥後国御家人井芹弥二郎藤原重秀法師(法名西向)謹注進言上 所領田数并人勢以下(乗馬 弓箭兵杖事) 一 所領田数、…

長電2000系

マイクロエースから長電2000系の復活リンゴ色とマルーン色の編成が発売される予定になっていて、長電ファンとしては見逃せないと予約していたが、トミーテックから冷房改造2000系が出ることになったのでそちらにシフト。こちらの方が安い、というの…

「むごい」の語源

ネットで目につくものに「むごい」の語源が「元寇」の「蒙古」から来ている、というのがある。しかし幸田文は「むごしはめぐし」と書いていて、「むごし」の語源が「めぐし」と関わりがあるかのように書いている。気になったので幸田文が本当なのか、ネット…

阪神ーロッテ戦

甲子園球場にて。先発はライアン・ボーグルソン投手と唐川侑己投手。 金本知憲外野手の本塁打を生かせず逆転負け。明らかにボーグルソン投手の替え時を誤っているが、外国人投手の替え時は難しいようだ。 久保康友投手の力投がロッテの勝因だろう。阪神にと…

北条時輔関係史料 文永3年(1266)9月29日「六波羅召文案」『青方家家譜』(『鎌遺』9574号)

引き続き召文。 肥前国御家人青方太郎吉高申、被抑留所従三人由事、重訴状(副具書)如此。早来十一月中、相具生口、可被参洛之状如件。 文永三年九月廿九日 散位 在判 左近将監 在判 白魚弥二郎殿 まずは読み下し。 肥前国御家人青方太郎能高が申す、所従三…

北条時輔関係史料 文永3年(1266)3月3日「六波羅召文案」『青方文書』(『鎌遺』9510号)

かなり時間が経っているが、問状に対し、こちらは召文。訴人(原告)または論人(被告)に対して出頭を要請する文書で「召文御教書」とよばれた。この文書の場合、論人の白魚弘高に対して出されているので論人に出頭を求めているのである。青方能高の訴状に…

北条時輔関係史料 文永2年(1265)10月20日「六波羅問状」『青方文書』(『鎌遺』9373号)

松浦党内部のもめ事に対処する六波羅探題。 肥前国御家人青方太郎吉高申、抑留所従三人由事、訴状如此。所申無相違者、可令糺返。若又有殊子細者、可被明申之状如件 文永二年十月廿日 散位 (花押) 左近将監(花押) 白魚弥二郎殿 まずは読み下し。 肥前国…

テッサ・モーリス・スズキ氏の論

テッサ・モーリス・スズキ氏の「チベット問題からみる人権 『国境』越えた連帯で保障を」を読んだ。「朝日新聞」5月22日付け。 今年3月、テロリスト容疑者を収容しているある施設から、そこにおける人権抑圧を告発する手紙が英国BCCに届けられた。 送…

はてな障害情報

書いて文章をアップしようとしたら「はてな障害情報」が出て、復旧したら書いた記事がなくなっていた。記事を返せ、と言いたいが、多分クソみたいな記事だったのだろう。 気力が失せたので概略だけでも。 平野恵一選手と濱中治選手のトレードはどちらが主導…

コリンズ監督辞任

気になるこの記事(「http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/080521/bbl0805212153011-n2.htm」)から。 就任1年目の春季キャンプでは「身体が疲れてしまっては、正しい技術が身に付かない」と投手に投げ込みを許さず、選手の自主的な居残り練習も禁じ…

阪神ーオリックス交流戦2回戦

今年は巡り合わせがいい。二戦二勝。平野恵一二塁手の三塁打に新井貴浩一塁手のツーランホームラン。今年の補強が生きた試合。この試合を落とせばズルズルいく可能性があっただけにこの一勝は大きい。 オリックスはチーム状態が上向いている、という話だった…

キーワード北条時宗

編集。なぜかはてなキーワードでは「北条時宗」ではNHK大河ドラマの紹介で、北条時宗そのものの解説ではない。大河ドラマ「北条時宗」の解説としては非常によくできていると思うが、やはり北条時宗本人に関する解説もほしい所。ただ書くべきことが多すぎ…

文永4年(1267)12月6日「六波羅御教書案」 『高野山正智院文書』(『鎌遺』9812号)

地頭と領家の泥沼の抗争。間に立つ六波羅探題。任快の提訴を受けて再び地頭の湯浅宗氏に六波羅御教書が出される。 まずは本文。 (端裏書)阿弖河 六波羅殿御教書案 文永四年十二月六日 紀伊国阿弖河庄雑掌申去年年貢並当年所当事、訴状如此。何様事哉、可令…

北条時輔関係史料4 文永4年(1267)5月30日「六波羅御教書案」 『高野山文書又続宝簡集』(『鎌遺』9713号)

順番から言えば14番目にあたるのだが、前回の史料の続き。 (端裏書)六波羅殿召符案 文永四 五卅」 斎藤内 紀伊国阿弖河庄雑掌申年貢事、宰相法印状(副重解状)如此。為相尋子細、早速可被上洛之状如件 文永四年五月卅日 散位在御判 左近将監在御判 地頭…

北条時輔関係史料3 文永2年(1265)10月5日「六波羅御教書案」 

今度は「高野山文書続寶簡集七十八」所収。つまり高野山に伝来した文書ということだろう。とりあえず本文と読み下し。 (別紙)「六波羅殿第二度御教書 阿弖河上下村地頭召文事 文永三年十月五日」 法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄雑掌申所務条々事、重訴…

はてなキーワード北条時輔

登録した。ウィキペディアの歴史物はそれなりに役に立つことが多いが、少し筆が走りすぎているきらいもある。例えば宗尊親王が佐渡に流されている、という記述。二月騒動後に出家しているのは事実だが、表向きは父の後嵯峨法皇の死去に殉じていることになっ…

北条時輔関係史料

突如閉鎖になった「日本中世史アーカイブズ」。母体の日本史アーカイブズは「一定の歴史的役割を終えた」として解散したが、ここに集積されたデータが散逸するのは何とも損失である。とりあえず私が保存したデータをここに保存・公開しておく。といっても「…

日本史アーカイブズ解散

関係者の方々にはいろいろお考えもあるだろう。論評は差し控える。ただ やばい!!! 今「北条時輔関係資料目録」を使って「一人で勝手に史料購読」をやっているのに。まだサイトは閲覧できるが、完全に閉鎖されれば非常に困る。というわけで保存保存。 しか…

北条時輔関係史料2 文永2年3月2日「六波羅御教書案」

この「案」というのは「案文」のこと。ようするに写し、というかコピー。もちろんコピー機で取ったわけではないが、筆写して手元に保管したりする。さきほどの文書は「正文」と呼ばれ、正真正銘の文書だったわけだが、こちらは案文。「後藤文書」収載。後藤…

北条時輔関係史料1 文永2年(1265)3月1日「六波羅御教書」

新しいシリーズ。『鎌倉遺文』が使えるようになった記念として一人で『鎌倉遺文』の史料講読。自分の勉強用。中世史アーカイブスの「北条時輔関係文書目録」(「http://jparchives.sakura.ne.jp/catalog/db/tokisukemokuroku.html」←消えてます)に載せられ…

腰痛

今日は部屋の掃除をした。自分の部屋として五畳半の洋室というかサービスルームというか納戸を占拠しているわけだが、そこの入り口に『鎌倉遺文』50巻と『史料大成』など計70冊ほどの本が積み重ねられていて入りづらいことこのうえない。ダイエットをす…

近江鉄道

少し前の話。ローソンで鉄コレ第6弾のばら売りを買ったら、松本電鉄・新潟交通に加えて小田急のクハ1600と近江鉄道クハ1202が出てきた。クハだけがあっても仕方がないので、バスコレ11弾のいすゞキュービックバスの京都市バスの開封売りを日本橋…

亀山上皇と安達泰盛と平頼綱

平頼綱は大河ドラマ「北条時宗」では北村一輝氏が演じていた。こわい演技で、宮迫博之氏演じる北条義宗やともさかりえ氏演じる北条時輔夫人の祥子との絡みは一つの名場面だったが、別のラブコメでこの3人が共演しているのをたまたま見た時に何となく笑って…

安達頼景

福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』(有隣新書、2006年)に安達泰盛の兄弟についての考察がある。しばしメモメモ。 安達頼景は安達泰盛よりも二年年長の1229年生まれ。1241年1月23日に笠懸の射手として「城次郎」富みえるのが初見。1253年泰…

二月騒動をどうみるか

二月騒動で一番利益を得たのは誰か。どう考えても北条時宗だろう。反時宗派になりかねない名越流に大打撃を与え、さらに危険因子であった北条時輔を粛正できた。北条時輔自身が時宗に対する謀反の意図があったかどうかは問題ではない。むしろ六波羅探題北方…

備忘録

今いいことを思いついたような気がする。一晩経てば屑みたいなものかもしれないが。 「異国征伐」は明らかに「御家人」の範囲を広げる活動である。「異国征伐」という「有事」を梃子に非御家人を御家人に取り込もうという動きもありそうだ。「異国征伐」のた…

北条時輔の立場

北条時輔は北条時宗の庶兄。母の血筋が低かったため、跡継ぎになれず、北条時宗が得宗の地位を継承した後は六波羅探題南方。二月騒動で北条義宗に討たれる。大河ドラマ「北条時宗」では渡部篤郎氏が演じていた、と言えば分かりやすいか。ちなみに大河ドラマ…

北条義宗の立場

今私の頭を悩ましているのが北条義宗である。 北条義宗は大河ドラマ「北条時宗」では宮迫博之氏が演じた役柄である。実際の義宗は極楽寺流の嫡流赤橋家を継承している。極楽寺流重時の嫡子にして六代執権だった長時の嫡子。重時の子どもについてまとめておく…

近衛基平がフビライの国書を拒否した理由

フビライの国書がやってきた時、朝廷の抱いたであろう印象は今日我々が抱く印象と相当異なっているようだ。近衛基平の日記からその印象を抜き出してみよう。 まず文永五年閏正月十八日条には「異国賊徒可来我朝之由風聞」とある。二月四日条には「異国賊徒間…

近衛基平とモンゴル国書2

まずは基平がフビライからの「和親」の国書に対して拒絶を答申した事情をみておこう。 結論から言えば二月十九日条には次のようにある。 今日余注申日来異国之沙汰議奏之趣、不可有返牒之由所存也。 要するに国書への「返牒あるべからず」ということである。…