2015-01-01から1年間の記事一覧

対訳『椿葉記』31

かくて院の御所にわたらせ給。さる程に内裏は廿日崩御なりぬ〈諡号称光院〉。践祚の事いまはひしひしとさだまりて、禁中は触穢なれば、三条前右府〈公冬公〉の亭を点じめされて新内裏になさる。俄に修理せられて殿舎などつくりそへらるゝとぞきこえし。同廿…

対訳『椿葉記』30

御共には綾小路前宰相経兼卿・庭田三位重有卿・綾小路中将長資朝臣、女中按察殿〈庭田三位女〉、御乳人などまいる。忠意僧正もいかゞともてなし奉りて四五日御逗留あり。さて室町殿より関白〈二条〉を以て、事の子細を仙洞へ申さるゝ程に、同十七日仙洞に入…

対訳『椿葉記』29

御位の望にて御謀反の企ある由、世中さはぎ申程に、七月十二日夜中ばかりに、世尊寺宮内卿行豊朝臣伏見殿へ馳参、三宝院准后の御使にて室町殿より申さるゝ趣は、宮御方明日京へなし申されよ、まづ東山若王子へ入申されて警固申さるべきなり〈赤松左京大夫入…

対訳『椿葉記』28

さて四月に年号かはりて正長元年と申。延喜こそ久しき年号にてあるに、それにこえて卅四年は我朝にためしなし。誠にながかるべき年号にてありけり。さて此五月の比より御悩はなをおもらせましまして、儲君の御事、世にはさまざま申程に七月のはじめ嵯峨にま…

対訳『椿葉記』27

その比赤松左京大夫入道没落して天下もしづかならず。御悩も一方ならず。世中はうかうかとし年も暮ぬ。あくる年正月十八日内府薨給ぬ〈勝定院と称号申〉。思ひよらずいとあさまし。いまは御子もなければ、御相続の事如何とさたあり。管領、畠山、諸大名評定…

痛風ーロター痛風のコンビネーションで沈没。この3週間何もできない。痛すぎて下手に歩いてふくらはぎやらあちらこちらを傷めてしまい、歩くのもままならない。 娘をホムセンに連れて行くのも日課になってしまって、保育園の帰りにはホムセン。カブトムシの…

『看聞日記』に見る鮭と昆布

永享八年五月九日条に以下の記事がある。 永享八年五月 九日、晴、源宰相伏見へ下。明堯禅門廿五年忌為仏事、蔵光菴七ヶ日可看経云々。於菴作善執行。南御方自今日精進断酒也。自公方鱸魚五、鮒鮨(魚編に离)三桶、菱食一給。東御方申次則賞翫。永基朝臣持経…

声帯炎

またやった。仕事が立て込む直前。9月にやったので、今後も再発するかと思うとうつ。声を出す仕事だから、声を出さない、というわけにもいかない。

小型水槽

小型水槽が二つあるが、一つは侘び草がいい具合に繁茂し、メダカも元気だが、もう一つはメダカは元気なものの、苔が出やすいので一旦リセットし、メダカは大きな水槽に放流した。で、トリミングした侘び草を植えてしばらく放置して昨日極火蝦を入れた。エビ…

対訳『椿葉記』26

さて内裏は七月の末御悩俄に大事にましまして、すでに崩御の由披露あり。儲君の御こと内々沙汰ありて、君の御事世には治定のやうに申めり。さる程に不思議に御とりのべありて、次第に本復まします。此御願に卅四年の冬八幡・賀茂両社の行幸あるべしとて、世…

ED19入線

ED19を買った。入線させた。r140では先輪が脱輪する。大人が運転すれば問題ないが、四歳児は常にフルスロットルなので脱線する。埃除けのアクリルカバーがあるので、しかもその上には雛人形が鎮座しているので脱線すると面倒臭い。ボツ。DD16は脱線癖がある…

足利義嗣に関する妄想

今閃いた妄想。 足利義持は足利持氏に対する上杉氏憲の攻撃を当初は容認し、むしろ督戦していたのではないか。その担当が義嗣だったのではないか。しかし叔父の満詮に迫られ、手のひらを返して持氏支持に回ったために氏憲と義嗣は粛清され、多くの大名も梯子…

太田光

科研プロジェクトの代表からコシャマイン戦争についての問い合わせが来て、答えたら「それオモロイから次の研究会で発表してくれや(意訳)」と言われて必死で大崎教兼挙状を検討中。そこで太田光の検討が。といっても爆笑問題のボケとは同姓同名の違う人(当た…

『満済准后日記』に見る禅秀の乱

今調べている網走の応永板碑関係、応永二十四年の年紀がある。ちょうど禅秀の乱の後である。 応永二十四年五月九日条 宇都宮へ(続群書類従本では「人」となっているが、どうみても「へ」である)御書。今日被□ー□(鎧カ)一両〈白糸〉御太刀一腰彼(続群書…

足利義嗣と北海道史

北海道中世史以外では顧みられることもない足利義嗣。その問題を三月に報告するので忙しいので放置。 でもIXAはするw

著作権法32条

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない どこにも無断引用はいけない、とない。そ…

対訳『椿葉記』25

其四月に仙洞には宸筆の御八講をこなはる。これは後円融院卅三廻の御仏事にて執行はる。紺紙金泥の法華経、竹園門跡助筆申さる。貞成にも両巻〈第五巻、阿弥陀経〉かゝせらる。後記のためも無官にてはいかゞにて、親王宣下の事を望申。仙洞勅許子細なくて四…

対訳『椿葉記』24

さて同卅年二月院の第二宮、これも俄に御隠あり。此宮は勧修寺中納言養育申て、かの家にわたらせ給。今度の儲君ときこえさせ給つるにいとあさまし。おなじ月に又将軍宰相中将義量〈勝定院息、号長徳院〉逝去せらる。うちつゞき公武の御歎もさこそとおしはか…

対訳『椿葉記』23

襁褓の時より今出川入道左府に養育せられて、多年菊亭に侍き。幼稚のそのかみ、聖護院覚増法親王の弟子に契約して、すでに入室の日次まで定らるゝ処に、不思議の障碍さへ出来してとまりぬ。倩思ふにも、こなたさまの身は、門跡をさへきらはるゝ程の員外の身…

対訳『椿葉記』22

かくて同廿三年十一月廿日親王つゐに薨給ふ。兼より遺書をあそばしをかれて、大光明寺に料所を寄られて、御塔頭をたてゝ大通院と御称号を申べき由申定をかる。さる程に一の宮〈治仁〉、御相続ありしに、いく程もなく次の年二月十二日俄に御隠ありしに、いと…

対訳『椿葉記』21

さて内裏は、御治天卅年政務おぼしめすまゝにておりさせ給ふ。同十九年八月廿九日一の宮〈称光院〉に御位ゆづり申さる。御治世はもとのごとくにて、よろづ目出度わたらせ給。伏見殿には御老病なへなへとまします程に、始終御安堵の事を仙洞へ申さるゝとて、…

対訳『椿葉記』20

いまはもとの御所もなし。御座あるべき所なくて故三位局〈杉殿と申〉里にて宝厳院と申比丘尼所になされたる所を、まづ御所になさる。狭少不思議なる草庵の、かりそめながらいまに御所にてあるなり。萩原殿をば前坊の御子に周高西堂と申人、公方へ所望申され…

対訳『椿葉記』19

さて准后御かくれの年、管領申沙汰して伏見御領を返申さる。此御領は長講堂領なれども、惣御領に混ぜずして伏見殿の御子孫管領あるべきよしを、光厳院殿御置文あり。御名字の地なるうへ、別したる御譲の子細も申披かるゝに付て、御安堵あればめでたくて、次…

対訳『椿葉記』18

世中は火を消たるやうにて、御跡つぎも申をかるゝ旨もなし。此若公にてやとさたありし程に、管領勘解由小路左衛門督入道おしはからひ申て、嫡子大樹相続せらる。其後内大臣までなられて出家せられき。此若公は昇進大納言までなられしに、野心の企やありけん…

対訳『椿葉記』17

准后の若公、梶井門跡へ入室ありしを取返し申され、愛子にて、いとはなやかにもてなされしほどに、此行幸にも舞御覧色々の御あそびどもにさふらはれて、色花にてぞありし。其四月に内裏にて元服して義嗣と名のらる。親王御元服の準拠なるよしきこえし。御兄…

対訳『椿葉記』16

さても准后は北山に山荘を立らる。此所は西園寺の居所にてあるを申受られて、昔常磐井の相国の造営せられしにも猶たちこえて、玉をみがき金をちりばめてつくり立られて、応永十五年三月行幸を申さる。十日ばかり御逗留のあひだ、舞童御覧・三船・和歌・蹴鞠…

対訳『椿葉記』15

かくて二三年は伏見に御座ある程に、同八年七月四日の夜回録しぬ。累代の御記・文書・楽器ども、大略中半過は焼ぬ。あさましとも申計なし。過つる二月には内裏炎上しぬ。ふるき皇居どもうちつゝき焼ぬればいとあさまし。さて此よし准后へ申さるゝほどに、萩…

対訳『椿葉記』14

さて御所をさへあけられて、萩原殿へ移申さる。伏見殿をは准后の山荘になさるべしとて、人もなく、いたづらにをかる。さる程に同六年十一月大内左京大夫入道謀反おこして天下乱たる折ふし、伏見の御所をば返し申されて、其十二月に還御なりぬ。 大内左京大夫…