2011-01-01から1年間の記事一覧
ディスカスの死去に伴い、水槽を一本減らした。これまで60cm規格水槽よりも少し小さめの58cm水槽(プレコ)に中型コリ(コリドラスのこと)、45cmキューブ水槽(ADA)にディスカス4匹と大型コリを飼育してきたが、ディスカスがいなくなったの…
同(天文)七年*1戊戌 松前年代記曰是歳造立将軍地蔵堂於松前北山。 按新羅記是時阿吽寺快盛宝院為司官 又按海渡山寺録暦代中無快盛法印者可疑矣。伝云此北山鳴動則境内必有凶事。未詳然否。同八年*2己亥 按是歳舜広生。是 永安公第一子也。小字彦太郎、後称…
ついに松前慶広が来たー!!! Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved. しかも「上」カード。これは何が何でも獲得しないと。 ちなみに安東愛季はランクアップした。徹底的に強化する。
天文元年*1壬辰 松前年代記曰自夏四月至秋九月不雨 同三年*2甲午 松前年代記曰夏四月十日蛇出。于上国義広射之。 按新羅記四月十六日也。蛇従女奈河口出于天河南岸。義広放箭射殺之。其間凡二町余云々。蛇当作蠎乎。 同五年*3丙申 松前年代記曰夏六月二十三…
自分の名前で検索をかけると、ハングルに囲まれた自分の名前を見つけた。私は残念ながらハングルが全く読めないので、翻訳ソフトにかけてみた。以下の通り。自分の名前は(自粛)としておいた。 一方(自粛)は≪高麗史≫と≪朝鮮王朝実録≫に登場する‘なぜ’と‘…
斯波義敦について先天性精神障害を持つとする小泉義博氏とそれに反論する河村昭一氏の議論をみている。小泉氏は「斯波家譜」の記述から義敦には情緒面で問題があり、知的能力の面でも障害が見られた、とし、河村氏が「斯波家譜」の記述の検討に基づき小泉説…
八戸南部氏の文書についていろいろ考えていたら、ついに斯波義敦まで考察の対象を広げなければならなくなった。斯波義敦は畠山満家の次の管領で、いろいろいわくつきの人物なのだ。 小泉義博氏は「室町期の斯波氏について」(『北陸史学』42、1993年)…
「永玉書状」の年代をめぐって『青森県史』と家永遵嗣氏の見解が食い違っていることに関して。 『青森県史』は文中の「六郎殿 小具足」という記述から「薩摩入道」を南部政光と考え、家永遵嗣氏は下記の事件から「薩摩入道」を南部光経と考えた。 抑武衛方、…
ディスカスの死去に伴い、水槽を一本化することにした。小コリ水槽にいたコリドラス(パラレルス×2、イルミネータス×2、カウディマクラートス、ガラナ1、ガラナ5、ポリスティクタス、ワイツマニー、あとインボイス名を忘れたが、パレアタスのVarかと思わ…
享禄元年*1戊子 松前年代記曰夏蝦夷蜂起。義広平治。 按新羅記、是歳夏五月二十三日夜暴風雨。至義広〈年代記者初作良広也〉自横杖槍*2、率壮士而警衛。于時夷賊在柵外、義広乃突賊貫之。因賊徒尽敗走。自是伝其槍以為家宝矣。 按槍匠兼綱也。元禄中賓客岡田…
大永元年*1辛巳 松前年代記曰春三月廿二日高広逝。于時三十九歳〈一作三月廿日〉。 是歳基広守上国。 按基広者高広之子也。已見于上。藩主第九世亦高広*2者利永公是也。 亦按是歳建立妙光山法華寺。其実承応*3中修造。同三年*4癸未 松前年代記曰夏造立山王堂…
恋女房のピジョンブラッドが☆になってから拒食になった最後のディスカスが☆になった。2004年の十二月に来て以来、7年間いたわけで、ディスカス飼育は楽しかったが、多分もう飼わない。
文亀二年*1壬戌 松前年代記曰是歳永快生。 按永快其人未詳。一説泰巖公*2第二子高広*3成僧、号永快阿舎梨*4。高広者文明十五年春正月生。已見于上*5。宜照考文明・永正・大永・天正中 又按是歳建立福寿山永善坊、至明和三年冬更号慈眼寺。永正元年*6甲子 松…
『福山秘府』は松前藩の家老であった松前広長の著述によるものである。詳しい説明は省くが、「年歴部」と言われる部分が松前藩の歴史を調べる上で非常に重要である。現在普通に手に入るのは『新撰北海道史』所収のものであるが、いかんせん欠が多い。巻之二…
何とか講義の直前に終わらせて、講義をしたらすっかり忘れていて、家永遵嗣氏の博士論文の一部をコピーし、綴じたところで用事は終わったと勘違いして、家に帰ってしまった。明日出しに行かないと・・・
明日から合戦。今日は珍しく陣をたっぷり張って、合戦準備万端。明日の午前10時から一時間ほど暴れてから仕事に行こうと思ったら、初校の締めきり>_<
早川由紀夫氏とリラックマ氏のやりとり。興味深い。 ニュース見ました。基本的に教授は間違ってないと思いますが、農家は国が安全だといったので作っただけで完全に被害者です。叩く相手を間違っています。 (リラックマ氏)Twitter. It's what's happening.…
罵詈雑言や誹謗中傷を「学問の自由」と称して擁護するのは、学問の自由の自殺行為であり、先人達が営々として築き上げてきた学問の自由、大学の自治に対する冒涜だよな。 追記 この問題は差別主義の煽動者が教授の地位を悪用し、学問の自由を楯に差別的言動…
大学人の中にはとんでもない差別主義者も当然いる。しかし彼等はしばしば「学問」を隠れみのに自らの差別性を正当化する。そのような輩には知里真志保の次の発言がぴったりだ。 思ふに学問の価値は絶対ではない。それは社会との関係に於て、又人類の幸福を齎…
『青森県史』所収の「遠野南部家文書」に「永玉書状」がある。頭痛のタネだ。 「永玉書状」は「遠野南部家文書」一四一であるが、『青森県史』によれば「応永二十一年頃カ」となっている。しかし家永遵嗣氏の「一五世紀の室町幕府と日本列島の『辺境』」にお…
津軽安藤氏嫡流とされる下国氏と室町幕府の関係に関して、室町幕府側の「取次」というか「手筋」を務めていた人物について、家永遵嗣氏は細川持之ではないか、と推測する。その根拠としては下国氏が十三湊に還住し、再び蝦夷地に落ち延びるまでの永享四年か…
下国氏をどう読むか。「下之国」という地域に関係があるのであれば「しものくに」だろうし、そう読まれることが多そうだ。私は『満済准后日記』にしたがって「しもくに」と読んでいた。底本の続群書類従完成会本は間違いがあるしなあ、ということで、私も何…
家永遵嗣「一五世紀の室町幕府と日本列島の辺境」(二〇〇七年)を入手した。さるシンポジウムの時にご教示いただいたものだ。 そこでは安藤氏に関して、その取次を細川持之とする見解が出されていて、畠山満家を取次とする私見とは異なる。ただ氏の論拠には…
もちろんベン・マッキンタイアー『エリーザベト・ニーチェ──ニーチェをナチに売り渡した女』のパクリ。 『新羅之記録』は下国氏の系図類と非常に相関関係が強い。平川新氏によれば安日から政季までの記述は下国氏の史料が使われた可能性が高い、という。また…
下国重季の跡を継ぐはずだったが早世した、と伝えられる下国由季。下国直季と蠣崎季広の十女との間に生まれた、と伝えられる。由季はいつ死んだか不明だが、1594年に死去した、という説もあるらしい。しかし下国由季の室が蠣崎守広の娘という時点で、そ…
茂別下国氏の考察をしている。鎌倉時代以来「蝦夷管領」(厳密には「蝦夷の沙汰」地頭代官職)として北海道の「沙汰」を任されてきた津軽安藤氏の末裔の茂別下国氏がなぜ蠣崎氏の家老となったのか、という下剋上の問題を考えている。 茂別下国氏の始祖は下国…
茂別下国氏の系譜に関する一連の考察。もちろんこの系譜もいわば「作られた」系譜であり、同じく安東氏の流れを引く三春藩秋田家とのやりとりの末に形成されてきたものである。 初代家政、没年月日は不明。1501年説がある。兄の下国政季が1434年か1…
系譜によると師季は茂別下国氏の初代下国家政の孫。家政の子で「宅季」とか「家季」となっている人物は早世して、家政の孫が家政を嗣いでいる。家政の死去の年月は不明(「松前国下国氏系譜」いわゆる「松前下国氏大系図」家政項目には「下国家政卒年月葬地…
系図では「茂蔑矢不来館」陥落の時期は「永禄五年(一五六三年)」とあるのだが、矢不来館は考古学的には十六世紀の初頭には廃絶しているらしい。焼け跡があるので、何らかの攻撃を受けて没落しているらしい。となるとやはり「永正五年(一五〇八年)」陥落…
『新羅之記録』が収録されている、ということで買った。1・2合わせて8000円。安い、ということで速攻入手。 『満済准后日記』もあった。訳がついているのはありがたいが、めちゃくちゃ。榎森氏の訳と同じミスをしている。榎森氏も協力者として名前を連…