連座の誤謬

まずはウィキペディア

連座の誤謬(guilt by association)

A「科学者Bの学説に対し、C教が公式に賛同を表明した。しかしC教は胡乱なペテン集団だ。B氏の学説もきっと信用には値しない」

これも対人論証の一種で、「その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である」というタイプの推論である。どのような個人または集団に支持されているか、という事柄は数学的・論理学的な正しさとは無関係なので、これは演繹にならない。

そもそも「対人論証」って何だっけ?ということで、「対人論証」をもう少し詳しく見ていくことにしよう。
またまたウィキペディア(「人身攻撃 - Wikipedia」)。なんだかんだ言っても役に立つ。不満があれば自分で解決解決。

人身攻撃(ラテン語: ad hominem、argumentum ad hominem)とは、ある論証や事実の主張に対する応答として、その主張自体に具体的に反論するのではなく、それを主張した人の個性や信念を攻撃すること。論点をすりかえる作用をもたらす。

基本的には論理のすり替え、ということだ。
誤謬となり得る人身攻撃の形。

人身攻撃が誤謬である場合、次のような基本的形式を持つ。

A という人が X と主張する
A について何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある
従って、X という主張は偽である

何が誤謬となるのか、と言えば、「A について何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある」ということと、「X という主張は偽である」ということの間に因果関係は成立しない、ということである。Aの属性に無関係にXという主張の妥当性については議論されなければならない。
分類としては「対人論証」「状況対人論証」「お前だって論法」「連座の誤謬」がある。
ああ、また項目が増えてしまった。
対人論証について

対人論証

対人論証は、一般に論敵を侮蔑するものだが、同時に表面上は相手の個性の欠点やその主張と相手の行動の乖離を事実として指摘する形式をとる。侮辱行為と相手の個性の欠点は(事実であったとしても)その主張の論理的な長所とは無関係なので、この戦術は論理的には虚偽である。この戦術は、政治家が優勢なライバルに選挙で勝つために、有権者の感情に訴えるプロパガンダの手段としてよく利用される。

論的を侮蔑することで、相手の主張の妥当性を攻撃することだが、相手の個性の欠点やその主張と行動のズレを指摘する、という形態。プロパガンダとしては有効だろうな。
状況対人論証。実は前回よく分からなかったものだ。

状況対人論証

状況対人論証とは、ある主張をした人物が、そのような主張をせざるを得ないような状況にあることを指摘するものである。基本的にその人物に関する偏見を植え付ける攻撃である。演繹的論理においてこれが誤謬とされるのは、相手の立場を指摘してその主張を論理的にも信頼できないように思わせたとしても、主張自体の論理性には何ら関係ないためである。これは、発生論の誤謬(出典を理由に主張が正しくないとする論証)とも重複する。

こちらの方が何となくわかる。前回出した例を見てみよう。

A「そろそろ新しいデジカメが欲しいって話をC君としたら、D社の新製品を勧められたよ」

B「C君のお父さんはD社に勤めてるんだから、C君がそう答えるのは当然さ。真に受けない方がいい」

C君のお父さんがD社に勤めていることは、D社のデジカメがお勧めであることの反証にはならない。D社のデジカメがお勧めではないことを、C君とは関係なく説明しなければならない、ということか。
お前だって論法。

お前だって論法

お前だって論法では、ある人物がその主張と矛盾した言動をしていると指摘するものである。特に、A さんが B さんの言動を非難したとき、「お前だって論法」で対応する場合、A も同じことをしていると返す。

例えばこんな感じか。

私「人間、もっと痩せなければならないよ」
相手「医者から太り過ぎと叱られたお前に言われたかねぇな」

確かに私に言われたくないのは分かる。しかし太り過ぎは健康に悪いことも事実であり、私の太り過ぎであることと、太り過ぎが体に悪いことは何の関係もないことである。
連座の誤謬

連座の誤謬

連座の誤謬も場合によっては、人身攻撃の誤謬の一種とされる。論調の類似性から、ある個人を何らかの属性に当てはめる場合である。

この形式の論証は次のようになる。

A が P という主張をする
B も P という主張をする
従って、A は B の一員である

AとBが共にPという主張をするからと言って、AがBの一員であることにはならない。まあレッテル貼りだ。
例として挙げられているのは次の通り。

「貧富の差が我慢できないと言うが、共産主義者もそう言ってる。だから、お前は共産主義者だ」

こういうレッテル貼りはマッカーシズムアメリカで行なわれた、チャールズ・チャップリンも、エジアトン・ハーバート・ノーマン共産主義者というレッテルを貼られ、攻撃された。ノーマンが共産主義者という意見はマッカーシズムを無批判に受け入れているのだ。

A は P と主張する
B は P および Q と主張する
従って、A は Q と主張する

例:

「貧富の差が我慢できないと言うが、共産主義者もそう言ってるし、奴らは革命を信じている。だから、お前も革命を信じているんだろう」

この変形として、相手の翻意を促す修辞技法がある。

「貧富の差が我慢できないとおっしゃいましたね。本気ですか? 共産主義者と同じことを言ってますよ。あなたは共産主義者じゃないでしょう?」

連座の誤謬と対人論証を組み合わせる技法もある。

「貧富の差が我慢できないと言いますが、共産主義者もそう言いますから、あなたは共産主義者です(連座の誤謬)。共産主義者は嫌われ者で、彼らの言うことはいつも嘘です。だから、あなたが言うこともいつも嘘です(対人論証)」

これもノーマンがされた攻撃だ。こういう攻撃によってノーマンは自殺に追い込まれた。詳しくは丸山真男のノーマンへの弔辞を参照。

問題は共産主義者とは客観的に何を言いしているかというようなことではない。モリス・ジェンナー(上院国内治安小委員会における査問議員)の徒輩がある人を共産主義者というときにどういう意味を含ませているかということなのだ。彼らによるとそれは第一に通常の品位さえ欠いた人間、つまりギャングやゴロツキと同義であり、第二にソ連のスパイだということにひとしい。およそジェントルマンの道を解する者にとつて、またおよそ一国を代表する外交官にとつて、こうした呼ばわりがどのように悪質な人格的ざんぼうであるかは言葉に尽せない。昔なら即座に決闘というところであるが、当の相手こそまさにカナダのピアソン外相の言を借りれば、ただ「彼らにふさわしい軽べつの念をもつて遇する」ほかない、つまり、決闘にも値しない政治ゴロなのだ。人間性の美しさをあのように愛し、知性による説得の可能性にあのように信頼をかけていたノーマンが、その長からぬ生涯の最後を、狂信と偏見と不寛容にとりまかれながらその命を断つたとするならば、残された我々は何をすればよいのか。(「E.ハーバート・ノーマンを悼む」丸山真男『戦中と戦後の間』みすず書房629ページ