象徴的貧困

「象徴的貧困」とは、過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態をさす。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールの提唱した概念。
というのは朝日新聞の記事のぱくり。かくも情報があふれている現代、判断力や想像力が欠落している人間ばかりがあふれている(かく偉そうに講釈たれているわたしなんぞもその一人だろうな)状況の考察に使えそうな概念なので備忘録がわりに。「象徴的貧困」という訳語を考えたのは石田英敬東京大学教授。石田氏によると「情報社会の中で増え続ける大量の情報に追いつくためには、情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねざるを得なくなっている」「結果として、政治や社会などの重要な問題についても、誰もが同じような感想や意見しかもてなくなっている」ということだ。
スティグレール氏曰く「現代の大きな危機は、象徴的貧困が進んだために、自分と他の人間を区別する境界があいまいになったこと」「その結果、自分が確かに存在しているという感覚が失われ、自分を本当に愛することもできなくなっている。そうした人間の危機がさまざまな社会問題や事件も引き起こしている」
確かに塾講師による女子生徒殺害事件における加害者の行動や、京大ギャングスターズの事件を見ても、想像力の欠如というか、人間性の崩壊というかが進んでいる、という印象を持った。かかる判断力・想像力の欠如を考えるのにある意味有効な概念なのかな、と新聞の文化面を読んだ印象では感じた。
スティグレール氏は象徴的貧困の出口としてインターネットに期待を寄せている。「情報のつくり手と受け手が同じ立場に立つ自由な共同体が生まれる可能性がある」と。
確かにそのような一面は見られる。しかし北田暁大東京大学助教授の次の言葉も示唆的だ。「インターネットによって新しい形の象徴的貧困が進んでいる」。というのは「自分たちと違う価値観や異質な見方と向き合う必要がない。ある意味では、マスメディアの時代よりコミュニケーションは貧しくなっている」からだ、という。私に関して言えば、確かに自覚症状はあるな。