「嫌韓・反中」雑感

とりあえず今の嫌韓・反中意識について、何となく思ったことをつらつらと書き連ねる。「嫌韓・反中」意識というのは、今の日本に閉塞感を強く感じていることの表明であり、今の時代に、あるいは日本に特有のものではなく、ある社会が閉塞感に覆われると出現するある種平凡な反応なのではないだろうか。そういう閉塞感が漂う中で、中国・韓国が「アジア一の大国」日本を猛追していることへの苛立ちが「嫌韓・反中」という反応として現れることは特段珍しいことではなく、むしろ普通に見られる感情なのである。それを対自化している場合もあるし、それを意識しない場合もある。あるいはただ何となく嫌いである、ということもあるだろう。一口に「嫌韓・反中」と言っても、様々なものがあるわけだ。それを一概に論じるところに無理がある、とは言えるだろう。しかしあえて「嫌韓・反中」感情が現在ネット上で表明されていることについて考えるならば、その共通点は、隣国に対する「嫌悪感」という「感情」がそのまま「言葉」として表出され、そのエキセントリックな「言葉」がまた感情を増幅するところにある。そしてそれはそういう感情の素朴な表出、増幅を抑制すべき理念的言説が力を失っていることを示している。
今、「嫌韓・反中」的言説において語られているのは、実は「韓国」や「中国」に対する反発だけではない。ここで批判されているのはむしろ「戦後民主主義」とそれを担った「進歩的知識人」的言説の方である。「戦後民主主義的」な言説を体現すれば、それは概ね次のようにまとめられるだろう。
まず戦争責任問題から日本のナショナリズムへの否定。そして排外主義的な心性の否定へと流れるアジア協調主義。あるいは家父長制的体制の否定から男女同権を掲げるリベラルフェミニズム。また一切の暴力を否定し、理性・知性による統治を是とする主知主義。そして貧富の差を生まぬ平等を志向する反経済中心主義。
これらの「戦後民主主義」的なものは何かしら一貫したものがあるように見えるが、細かに見れば、それぞれに賛否があり得る。日本の戦争責任を認めない立場からすれば、日本ナショナリズムの肯定につながるし、アジア諸国への反発から排外主義的心性を肯定することもある。それと全く異なった位相で家父長的体制を肯定し、リベラルフェミニズムを否定し、男女の役割の固定を指向する。理性・知性に対する反発から反主知主義主情主義の立場に立つ。格差社会を容認する経済中心主義を肯定する。この全てを否定する、肯定するという立場の他にそれぞれに肯定・反発があり得るのだ。だから単に「戦後民主主義」を否定する、という考えにも、それぞれバリエーションが存在し得る。
ただ、こういう理念的言説に対するぬぐいがたい不信感と敵意が嫌韓・反中的言説に表現されているのだ。恨まれているのは「説教がましい」「教育的な」言説であり、それは確かに抑圧されたという経験をかれらの心に刻印したのだろう。そしてその言説への反感から、自らの実感により近い中国や韓国への否定的感情を語ることの方がタブーを打破する、革新的な行為だと捉えさせ、一層の「本音」言説を表出させる。理念的言説に「抑圧された」というルサンチマンや、理念的言説にひそむ「偽善的物言い」あるいは理念的言説を語る人々の「上から目線」(と彼らに感じられる)が、「素朴な感情」の表出を「言説」に編成するのだ。
今の嫌韓・反中思想共通してあるのは既存の価値を疑い、超越しようというラディカリズム、あるいはシニシズムではないだろうか。既成の価値を根源から否定し、変革しようというラディカリズム、あるいは既成の価値を冷笑し、忌避しようというシニシズム、現象は異なるとは言え、いずれも既成の価値を相対化する、という動機を持っている。嫌韓・反中を主張することは、彼らにとっては、既存の価値を打ち壊し、タブーに挑む、挑戦者としての姿勢を感じることができるのである。あるいは「弱者」のために発言することは既得権の保持であり、偽善なのだ。既得権に守られた「弱者」のタブーを打破する、という姿勢が彼らを惹きつけるのである。あらゆる価値を超越した彼らが頼るのは「私」の思考、「私」の感性、「私」の利害。つまり「私」の思考の及ぶ範囲での合理主義の信奉、「私」の感性のままに素朴なナショナリズムへの回帰、「私」の利害に基づく経済中心主義の支持。
「私」の思考・感性・利害を重んじ、「理念的言説」の価値体系を超越しようとする指向は今の日本に特有のものではもちろんない。日本においては1970年代のラディカリズムにそのすがたを見ることが出来る。伝統・既存の社会的価値を徹底的に疑い、攻撃し続ける態度。一つの価値規範のみを追求し、それで社会的な多様性を乗り越えられると考える「純粋さ」。「私」の世界観で世界がすべて解釈可能であると考える「傲慢さ」。ラディカリズムは典型的な「青年期」思想の形を取る。1970年代においては「青年期」思想は左翼の形をとって現れた。1970年代の「左翼」は既存の「保守」のみならず「旧左翼」をも批判の対象とした。今はその「青年期」思想を体現しているラディカリズムが例えば「嫌韓・反中」の形をとって現れているのではないだろうか。
それに対する「左派」側の対処にはどのようなものがあるだろうか。拙劣なのは、一方的に非難することである。私が彼らの主張に何ら共感を覚えず、彼らに対し反感しか覚えないのと同様に、彼らも私の主張に何ら共感を覚えないだろうし、反感しか抱かないだろう。これを彼らが一方的に劣っていて、私が一方的に優れているから、ではない。そもそもの価値観が違うからであり、一方の価値観が優れていて、一方の価値観が劣っている、ということは基本的にはない、と思う。異なる価値観で対話をするとすれば、まずなされるべきは相手の主張を整理し、その拠って立つところを明らかにすることにある。それを行わずして自説を一方的に述べることは、不毛である。
なすべきは、相手方の主張の感情の抽象性、言い換えれば語られる言葉がある特定の型にはまったものであることを鑑み、それへの対抗言説として具体的な感情を表出できる言葉を紡ぎ出し、提示すること、理念的言説そのものを再建すること、そしてそれらを通じて現在の感情と言説が単純に直結している現状を変えていくことが挙げられる。
今回は「嫌韓・反中」という思想を取り上げたが、様々な「ネット言論」にも何かしら共通するのではないだろうか。もちろんこれだけで説明できるとは私も思わないが、こういう問題を考察する視角の一つとして、考える際のきっかけ、参考にでもなれば望外の喜びである。