コリンズ監督辞任

気になるこの記事(「http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/080521/bbl0805212153011-n2.htm」)から。

就任1年目の春季キャンプでは「身体が疲れてしまっては、正しい技術が身に付かない」と投手に投げ込みを許さず、選手の自主的な居残り練習も禁じた。「量より質」「セオリー」を重視した言葉には納得させられるものも少なくないが、柔軟性に決定的に欠けていた。
例えば、若手の左打者坂口の起用法。一時リーグ2位の高打率を誇っていたときでさえも、相手が左投手なら先発から外した。先発投手も内容にかかわらず、100球前後で交代させた。これで選手の成長が望めるのか。「我慢」という日本の美徳は通用しなかった。起用法に関する不満はあちこちから漏れた。

米国流を貫こうとしたことが対立の一つの原因であることはわかる。しかし「我慢という日本の美徳」と相いれない、というのは関係ないだろう。投げ込みをしない、というのは、例えば権藤博氏は典型的な「肩は消耗品」論者であった。権藤氏が例外的に投げ込ませたのは頑丈だった下柳剛投手だけであるらしい。これも「日本の美徳」と外れているのだろうか。むしろ権藤氏の場合「権藤・権藤・雨・権藤・雨・雨・権藤・雨・権藤」と言われた酷使で選手生命を縮めた自身の体験が大きいと思う。「我慢という美徳」の押し付けの犠牲者だったわけだ。百球限定というのも、もともとはメジャー流なのだろうが、現代野球ではセットアッパーからクローザーへとつなぐのが大勢であり、先発完投を望むのは、打撃有利の現代野球ではかなり苦しいことは周知の事実である。飛ぶボール、飛ぶバットで投手不利の中、先発完投できるのは、ある意味絶対的なエースだけであり、そういう投手は各チーム一人いればいい方である。ダルビッシュ有投手であれば、コリンズ監督も敢闘させるケースもあるのではないだろうか。これも「我慢という美徳」を理解しない米国人という問題にすり替えるのであろうか。
坂口智隆外野手の起用法にしても、相手が左投手ならば外した、という点だが、これも「日本人の美徳」とこじつけるのは当たらない。2007年の出場試合数が46試合。要するにまだレギュラーではなかったのだ。阪神で言えば桜井広大外野手と似た位置づけである。桜井外野手も相手が左投手の時の先発要員でしかなかった。相手が右の時には葛城育郎外野手が出たのだ。こういう起用をした岡田彰布監督も「我慢という日本の美徳」が通用しない監督なのだろうか。
コリンズ監督の采配あるいはやり方などについて疑問があるのはわかる。しかしそこに「日本の美徳」という自分の日頃感じている感情を入れて論じることで、せっかくの考察自体が無意味になってしまうこともあるのだ。
小関順二氏は『プロ野球 問題だらけの12球団』の中で次のように述べる。

アメリカ人監督・コリンズは昨年、1試合100球の球数制限を設けた。これが今年は、プラスに働くと思う。完投に固執して前半戦、投げすぎることが息切れの原因だったからだ。

これをみる限り「我慢という日本人の美徳が通用しなかった」と反対であることがわかる。自分のもっている通俗的な価値観で物事を論じることのくだらなさがわかる。
むしろオリックスが抱える問題は小関順二氏が述べたことに尽きると思う。小関氏はその著書『プロ野球スカウティングレポート2008』の中で次のように述べる。

ここ数年の低迷はフロントの迷走が原因だ。谷佳知中村紀洋早川大輔など他球団に移籍した選手が成功する一方で、獲得した選手はまるで働いていない。
またドラフトで小瀬浩之を獲得し、機動力野球を目指すのかと思いきや、大型野球に目覚めて平野恵一を放出して濱中治獲得し、カブレラも入団させるなど、戦略が何一つ見えてこない。

同著の2007年版でも辛辣だ。

ドラフトや補強にも計画性が感じられず、完全に迷走状態が続いている。まずはフロントの意識改革が必要だろう。

楽天野村克也監督の言葉が印象的だ。

まあ気持ちは分かるよ