奥州探題を考えてみる

参考:黒嶋敏「奥州探題考」『中世の権力と列島』(高志書院、2012年)
大崎義直が出た*1ので、秀吉と政宗の続編。

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優秀な防御カード。コスト2で兵数2010。というのはまあどうでもいいw
大崎氏は代々奥州探題世襲する家系。奥州探題については、研究の蓄積の割には、奥州探題自体の実像は明らかではない。奥州国人や室町幕府との関係が曖昧なままである、と黒嶋氏は指摘する。
まずは奥州探題の歴史の概観から。
南北朝期に設置された奥州管領は、軍事指揮権の他に寺社興行権、所務・検断沙汰審理権(民事・刑事裁判権のこと)などの統治権を持っていた。畠山国氏・吉良貞家にはじまる奥州管領は、観応の擾乱の中で、分裂を繰り返し、その中で斯波氏が台頭してくる。
その中で1391年、奥羽二国は鎌倉府の管轄にはいることになる。しかし関東公方足利満兼が弟の満隆・満直を稲村公方篠川公方として送り込むと、翌年には幕府は斯波詮持を奥州探題に任命した。以降、詮持の子孫である大崎氏が奥州探題世襲することになる。
大崎氏がどのような体制を構築したかは、研究者によって論争がある。伊藤喜良氏は軍事指揮権や官途推挙権などを掌握しており、探題を中心とする室町的秩序が維持されていたと主張する。遠藤巌氏は、奥州の国人は京都御扶持衆として幕府に個別に掌握されており、奥州探題や浪岡御所などの「御所」と有力国人の「屋形」による御所・屋形体制であるとする。小林清治氏は、国人が十五世紀後半には独自の権力体系を築き始め、大崎氏は昔日の面影を失い、虚名を保つだけとなっていた、とする。
黒嶋氏は、奥州探題の実際の職権を奥州管領陸奥国守護職と比較検討した研究は乏しく、また、国人や篠川御所との関係も不明なまま、「室町的秩序」という語が一人歩きしている現状や奥州国人に関する研究も、個別研究に陥っている現状を指摘する。
この話は続く。

*1:ちなみにもうない。合成に使ったw