塾講師が生徒を刺殺2

こういう問題について論じる時に、私はいつも考えていることがある。それは特異な人格による特異な事件なのか、あるいはシステムの不備によるものなのか、ということだ。たとえば広島や栃木で女児が殺害された事件は、特異なキャラクターによる特異な事件である。被害者は当然のこととして、周囲の人々にも予見しづらい事件である。もう一つはたとえばJR脱線事故は運転士の特異性よりも重大な問題としてJR西日本自体の経営体質自体が歪んでいたことが挙げられる。これは明らかにシステムの不備である、ということになる。
今回の事件は難しい。容疑者の異常性は明らかになりつつある。私は当初、未熟な人格による刺殺事件と考えていた。生徒との対立を上手く処理できずに、リセットしてしまう、という人格は今日特別に珍しい存在ではない。そういう類いのものだと思っていたのだ。しかし私の見方は誤っていたようだ。
ポイントとなる事項を列挙しよう。
1 容疑者は同志社香里から同志社大学に進学した。
2 容疑者は京進の卒業生であった。
3 容疑者は2003年10月に大学図書館で置き引き事件を起こし、しかも警備員に暴力を振るって、強盗致傷容疑で執行猶予付きの有罪判決を受けていた。
4 その結果同志社大学から停学処分を受けていた。
5 停学処分中、つまり執行猶予中に京進のバイト講師として雇用された。
6 人気はあった。小学校の卒業式にもやってきてくれて、生徒が感激していた。
7 一方で厳しすぎる指導によって被害者の生徒との関係は悪かった。
とりあえず以上のポイントについて考察を加えよう。
1について。
同志社香里から同志社大学に進学した、という点である。内部進学であるから、中学入試を経て同志社に入学しているのだろう。
2について。
京進の卒業生である、ということだが、中学時代に京進に通っていたのではないか、と想像している。それは確証はないが、少なくとも現在の宇治神明校の校長は容疑者の恩師ではないかと推察する。なぜかといえば、塾ではしばしば教え子を採用することが多いからである。
3 執行猶予中で停学中の容疑者をなぜ雇用したのか、という問いは、2で説明がつくのではないだろうか。断っておくが、確証はない。したがってこの点については新たな情報が入り次第考え直す用意はある。
4 大学の処分の内容だが、軽すぎる、とかいろいろ言われるだろうが、少し詳細に論じたい。結論から言えば、大学の想定の範囲外の事件である、ということだ。大学は厳しい、というよりも、臭いものには蓋、で退学処分にしておくべきだっただろう、というのが今の私の見解。これは大学人のはしくれとしてもう少し詳細に考察したい。
5 これは2ですでに述べたことだが、講師の採用に関しては詳しく論じたい。
6 塾の運営としての営業活動の問題。それと生徒への熱心さは別問題だ。逆に生徒に「はぎっち」と呼ばれる講師には問題が起きやすいことも指摘しておく。これは塾講師の指導方法の問題であり、詳細はあとで検討する。
7 こういう講師はしばしば存在する。人間的な制御が効かないのだ。講師も人間である。合う、合わないは当然存在する。合わない生徒と向き合う技術がなければ、いろいろと面倒なことになる。これも講師の指導力量の問題だろう。
ポイントから考えた問題点だが、そこから論じるべき主題を提示すると、次のようになるだろう。
一 大学の処分はいかにあるべきか。
関学の学生が折り鶴を燃やした事件と比べての問題点の提示を行ないたい。ちなみに私が今在籍している大学でも当然同様の問題は起こり得るだろう。大学とはいかにあるべきか、という問題、さらに大学の社会的使命について考えたい。
二 塾講師の採用はどうなっているのか。
これは「塾講師が犯罪者になった」のではない。「犯罪者が塾講師になっていた」という点で特異な事件である。しかしそういう特異なキャラクターが塾講師になぜ採用されたのか。京進の責任は当然として、塾全体で考えるべき点はないのか。商業マスコミでは言いにくいような実像を提示したい。
三 塾講師はいかにあるべきか。
生徒といかに接するべきか、悩む講師は多いはずだ。特に女子生徒は難しい。基本的スタンスをしっかりもっておくべきだ。講師のとるべきスタンスについて私見を述べたい。
以上をこれから三日間に分けて述べていきたい。