「理性の崩壊」と「想像力の欠如」の間

塾講師が生徒を刺殺問題で、みちる氏より「理性の崩壊状況」、冨平氏より「想像力の欠如」という提言をいただいた。この二つの意見は遠いようでいて実に近い。キーワードの一つは「反知性主義の跋扈」である。反知性主義は単なる「バカ」としてではなく、特定の政治思想として存立している。基本は近代社会が築いてきた「近代知」への挑戦である。
もう一つのキーワードが天野祐吉氏のCM天気図にあった「言葉の断絶」である。言葉が通じなくなっている。言葉が通じないのは、言葉を使って思考をしていないからである。言葉は自分の感情を表すための道具と化している。自分の快・不快に適合した適当な言葉をあてはめ、何かを考えたつもりになっている。こういう状況を「知性の劣化状況」と呼ぶ。これについて興味深い考察がある。文藝春秋1月号の誌面から - 日本人の知性劣化と「呪術の園」 : 世に倦む日日に書かれた

日本人をバカにする運動(Make Japanese Fool Themselves)の主力は米国と政権と資本である。竹中平蔵だ。だがその運動に手を貸したのは左翼方面の脱構築の連中だ。私はそう考えている。

知識的な高さや知性的な完成度に対して反発する感情を正当化するのはやめよう。無知の正当化や合理化はやめよう。知識(や先学の古典)を無条件に貶損する脱構築ポストモダン)の態度を捨てよう。脱構築の帰結は格差でしかない。

という提言は、傾聴に値する。なぜなら、近年のネットウヨの発言の各所に左翼方面の脱構築の影響が見てとれるからだ。思えば戦後の日本において「反知性主義」を声高に主張していたのは脱構築を主張する「左翼」的「知識人」だった。その口まねが横行しているのだ。それは感じる。
さらに「反知性主義」の流通に大きな影響を及ぼした現象に「ネクラ」「ネアカ」があると私には感じられてならない。考えること、知ろうとすることに「ネクラ」のレッテルを貼り付け、思考停止に陥ることに「ネアカ」の称号を与える。「ネクラ」のレッテル怖さに当時の若者たちは一斉に思考停止に陥り、その世代が今日日本の知性を腐朽させているのではないだろうか。思考停止に陥れば、想像力は欠如する。想像力の欠如はそのまま理性の崩壊状況に直結する。想像力・理性の根幹は思考することである。思考停止に陥った現状の日本社会にむき出しの「力」(power)信仰が芽を出す。今日日本の言論界を覆っているレイシズムも思考停止の成れの果てである。言論界にあふれるレイシズムは日本の危機的状況を映し出す鏡である。こういう思考停止状況が、本来思考すべき「知識人」にも広がっていることこそ危険なのだ。しばらく一人の知識人の「思考停止」への「転向」状況を検討したいと思う。