「理性の崩壊」と「想像力の欠如」の間補遺
この気持ち、わかるな。ある教育社会学研究者の言葉。
伝統・既存の社会的価値を徹底的に疑い、それを攻撃し続ける態度。一つの価値規範のみを追求し、それで社会的な多様性を乗り越えられると考える純粋さ。私の世界観で世界がすべて解釈可能であると考える傲慢さ。ラディカリズムは典型的な「青年期」思想の形を取る。言ってしまえば、かつての「左翼運動」とはこうした青年期思想の正当化に左翼理論が使われたものなのだ。
今その場所に「ネットウヨ」の言説が収まっているのだ。ただ70年代の学生運動は、その思想に自身の身体を賭けるものがいた。今のネットウヨたちは良くてブログで、多くは匿名掲示板で、およそ己の何も賭けずにただ己のナイーブな心情を代替してくれる勇ましい主張に己を重ね合わせて、何かを口先で叩いてみせるだけのことだ。
今、改めて己の思想的立場を考えてみる。「保守主義」と「ラディカリズム」の対抗軸に自身を位置づけるならば、私は明確に「保守主義」を取ろう。先人たちが紡いできた社会的価値や文化を土足で踏みにじるような輩とは断固立場を違えよう。
この言葉は前に引用した文藝春秋1月号の誌面から - 日本人の知性劣化と「呪術の園」 : 世に倦む日日と照応している。「反知性主義」の先にある「似非知性主義」。そしてその祖型は左翼的な脱構築・ラディカリズムにある。しかし出てきたものはかなり違う。その「違い」にも目を向けなくてはなるまい。
今日のネット上の言説において「保守」と自称している人々の多くは、保守的ではない。歴史・伝統に敬意を欠いた「似非保守主義」である。皇室問題の対応に自称「保守」の対応が現われている。女系天皇という選択肢は、伝統的保守主義者から見れば、肯定しがたいものであるはずだ。事実、多くの保守系ブログでは反対意見が盛んに出されていた。小泉政権を支持しながら、一方で小泉政権が打ち出した女系天皇の議論に多くの「保守」はとまどいつつ、おずおずと女系天皇反対論を述べていたのだ。もちろん小泉政権を支持する人の多くは女系天皇も支持だったのだが、ネット界ではそうでもなかった。小泉政権は支持しつつも、女系天皇には反対をする、という、是々非々主義で臨んでいたのだ。もちろんこの立場は有り得べき立場である。小泉政権に白紙委任をしたわけではないのだから。しかし小泉総理の基本的な意識は白紙委任である。郵政民営化に賛成することは、即ち小泉政権への白紙委任となるのだ。だから選挙で小泉自民党圧勝の瞬間、男系皇室の命運も定まっていたのだ。極一部の論者は小泉政権が女系天皇を打ち出していることを知らなかった、ととぼけているのか、それとも本当に知らないで小泉政権を支持していたのか、どちらとも判断つきかねる言説を展開していたが、もちろん多くの論者はそういう無責任きわまりない態度ではなく、真摯に天皇制の問題に取り組んでいた、と私は思う。
しかし、だ。中・韓が靖国問題で、日本との対話を拒み、小泉総理が中・韓批判を繰り広げると、多くのブログは、一斉に小泉政権を支持した。もちろん是々非々主義の立場に立つ以上、小泉政権の対外関係には支持を表明する、というのは有りだ。しかし女系天皇問題の言説がほとんど消えたのには、いささかびっくりさせられた。「あ、いいのね、女系で」というのが私の率直な感想だ。私自身は天皇制がどのようになろうと、知ったことではない。現時点で即時廃絶、なんてことを思う必然性も感じない。天皇制が支配的な言説を形成しているわけではないのはもはや自明だからである。
現在「保守」の心を捉えているのは、「強い日本」への憧れであり、対外硬姿勢への支持に、そのことが表されている。そして対外硬姿勢に、天皇の占める位置は存在しないのである。しかし天皇制を否定するだけの論拠も、必然性もない。天皇の存在はあいまいなまま、議論が積み重ねられている。
と、偉そうに書いている私自身、天皇制の問題をどう論じるべきか、スタンスが定まっていないのだ。この20年、天皇制を常に真正面に見据えて歴史学を論じてきた私自身、今、自分の立ち位置をどうすべきか、悩んでいる。