『へんないきもの』シリーズ

大変愛読している。絵が結構気持ち悪く、しかも私は生理的に軟体動物と環形動物と扁形動物を受け入れないので、読むのに苦労する。
『またまたへんないきもの』が出た。前回の『へんないきもの』は脱力系の著作だった。2004年8月に初版だから、そんなに世相に危機感はなかったのだろう。しかし2005年12月に出た『またまたへんないきもの』ではかなり異なる。
たとえばイヌ。「社会がへたると、権威者や人気者を褒めそやす一方、敵を作ってぶっ叩き、異端と見るやこきおろすようになるのが世間一般の心理」という一説は、何を意味しているのだろう。アホロテトカゲの項目。「軍備とやらは、愛する人を守るためとか何とかいった理由で必要だそうだが、そのコストは、結局一般市民の血税によって支払われるのである」
カギムシの項目。近年アメリカ保守層が主張する「科学的創造論」について「カール・セーガン博士はこの手のファンタジーを好む人の増大を危惧、知性は衰退し、宗教的情緒が国を暗く覆っていくだろうことを自著で予言した。米国の知性の灯台であったセーガン博士が、未知の宇宙に旅立った後、かの国は博士の予言通りに動いているように見え、また我が国はその尻にカギムシの交尾の如くひっついているように見える」なんてこと言って大丈夫か、と他人事ながら心配してしまう。
基本的に「科学的創造論」に対する批判的姿勢は「へんないきもの」シリーズを貫いているが、「またまた」に到って強く打ち出されている。また「御用学者」による「科学的知見」のねじまげという事例も多く出されている。
他にもいろいろとドキリとさせられる表現に出くわすのだが、これとてもさだまさしの「遥かなるクリスマス」の「戦場に送る契約」の「戦場」を社会一般としか受け取れない人々が増殖しつつある現在、自分の身に引きつけて考えられない人々にかかれば、「一般的な話」で片づけられてしまいそうだ。物事を自分の身に引きつけて考えられない人々の増加が『嫌ホニャララ流』のヒットにつながっているような気がする。
ちなみに少し考察を加えておくと、江戸時代に循環型経済システムが出来ていた、という議論は眉唾だ。材木の問題一つ取っても、大規模火災のたびに多くの材木が必要なわけだが、それをどこから調達していたか、それは蝦夷地である。蝦夷地の材木を大量に移入して江戸で財をなしたのが飛騨屋久兵衛で、飛騨屋のえぐい場所経営がクナシリメナシ蜂起につながったのは有名な話だ(一部の間では)。さらに江戸後期に入って商品作物が多く作られるが、そこで主力になったのがリン分の多い鯡〆粕肥料である。金肥として学校で習う「干鰯」よりもリン分が多かったので果樹に効果的だったのだ。そして〆粕は現地で鯡を煮るので、多くの燃料が必要だ。鯡魚場では森林の伐採が進むのだ。その結果アイヌは生活の場を追われ、商業資本の下層労働力として酷使されることになる。蝦夷地の徳川日本への併合以降の蝦夷地勤番制下の場所請負制におけるアイヌの大幅な人口減少は、「循環型経済システム」であったはずの徳川日本の経済活動の結果生じた環境破壊の結果起こった出来事なのである。徳川日本はいわば公害を「辺境」に輸出していたのである。ノルウェーがサーモンによる環境破壊をスコットランドに輸出していることとあわせて思い出される。環境大国の裏の顔にも注目をする必要がある。