言語と文化

なんていうジャンルの評論文を読ませる演習。灘中学は大好きなのだ。だからはずすわけにもいかないのだが、いきなり清水馨八郎。言語の専門家と違うがな。だから突っ込みどころ満載。とにかく日本の言語が特殊だということを言いたいのだ。しかしそのレベルならばいくらでも特殊な言語はある。結論が先にあって、それを正当化するためにいろいろな事象を引っ張ってくる手法は日本の「論説文的随筆」の常套手段だ。あれは日本の随筆のレベルを貶めているだけなので、何とかしてほしい。そもそも「論説文的随筆」というジャンルがおかしいのだ。なぜ論説文に入れないのか。理由は簡単だ。入試で論説文のジャンルに入れる文章は「問題提起、実証、結論」というステップを踏んでいるのが条件だ。というよりもそのステップを踏んでいるものを「論説文」と分類している、というほうが正しい。そして解法として、そのステップをしっかり押さえるように指導するのだ。だから自分の意見が先ずあって、そして自分に都合の好い適当な事象を拾い集めてきた文章は「論説文的随筆」に入れるのだ。「随筆」のジャンルに収められる文章の解法は、筆者の体験と筆者の意見を読み分けることだ。実証のステップが抜け落ちている。そこに論理はない。書いている本人は「論説文」のつもりなのかも知れないが、「随筆」である。
ちなみに随筆というジャンルは生徒から嫌われるジャンルだ。理由を聞くと「なぜそういう結論になるのかわからない」という。だから指導方針としては、そこに論理的必然を求めてはいけない、ということになる。筆者がこう思った、以上。
随筆嫌いの生徒も向田邦子の随筆を読ませると面白がって読む。すぐれた随筆だってあるのだ。
清水馨八郎の次は三浦朱門。基本的に嫌いだが、その文章はいい文章だったように思う。やはり日本語の特殊性を言いたいのだが。
ちなみに灘ではそういう「言語」論は出ない。灘が出すのは本格的な言語学の文章。
他に韓国文化と日本文化の共通点と相違点を考察した文章などもあった。その人いわく、日本人は色々なものを取り入れて自分のものにする柔軟性がある、韓国人もそういう柔軟性はあるのだが、オリジナルと主張する剛直さが日本人と異なる特色だ、という内容だった。しかし最近のネット言説を見ていると、最近の若い日本人にも剛直さが出てきたな、という気がする。逆に近年の若い韓国人の話を聞いていると、かつての日本人のような柔軟性を持ち合わせつつあるような気もする。それは当然ある事柄を象徴するものだが、それはここでは言及しない。