イチロー論2

五十嵐仁氏のコラムhttp://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htmイチロー発言批判があった。

 今日の『東京新聞』夕刊の星野智幸さんの「差別はなかったか」「『屈辱』発言に疑問 高ぶる反応に違和感」という論評を読んで、私の感じた違和感の正体を知りました。世の中には、優れた人がいるものです。
 星野さんは、イチローの用いた「屈辱」という言葉について、「相手から不当な辱めを受けたという敵意も含む」ものだとして、小泉純イチロー首相との類似を指摘しています。そして、「こじれる一方である首相の靖国参拝問題などによって、日本人の間には韓国を疎ましく思う気持ちが強まっており、WBCでのイチロー選手の発言はその傾向にみごとに合致した、ということではないだろうか」「そこには、他人を貶めることで自我を強固にしたいという、攻撃欲が含まれてはいないか」というのです。
 イチローの発言の裏には差別意識があり、それは「韓国を疎ましく思う気持ち」や、「他人を貶めることで自我を強固にしたいという、攻撃欲」を含んでいたがゆえに、多くの国民の共感を得て「高ぶる反応」を引き出したのだというのです。このような国民の気分を作り出した背景は、小泉首相靖国神社への参拝にあります。

私はこの意見には乗らない。その理由は二つある。まず一つは、実際全日本は明らかに屈辱的な負け方をしているからだ。僅差で二連敗。これは全面的に打撃陣の責任であり、打撃陣のリーダーであるイチロー外野手はその責任を一身に背負った。それだけの話である。
もう一つは、私はそれ以上の意味合いをイチロー外野手の発言から深読みする姿勢は却って危険であると思うからである。イチロー外野手の発言に一方的に「差別意識」を読み取り、イチロー発言を攻撃することで引き起こされるものがあるのだ。しかもイチロー発言を小泉首相靖国神社への参拝に引きつける言説は、きわめて危険ですらある。イチロー外野手を政治的に利用する試みは、かならず反動がある。逆の立場からのイチロー外野手の政治利用を促進するだけなのだ。五十嵐氏はおそらく野球などに関心はあまりないのだろう。WBCにおけるイチロー外野手が置かれた立場、あるいは日韓戦の野球面から見た日本の置かれた立場に対してあまりにナイーブな発言から、それは透けて見える。五十嵐氏の立場に賛同したいと思っている私でも、今回の五十嵐氏の発言は納得できない。それは安藤美姫選手や荒川静香選手を政治的に利用する人々と同じ行動なのだ。
そのことに関していつも引用する教育社会学研究者の言を引用しておこう。(うまくリンクできない)

日本社会(の一部)がイチローの発言を喝采して迎え、逆に韓国社会(の一部)がイチローの発言を韓国への侮辱であるととらえるという結果は必然的なものであり、かつ「問題」だ。私(たち)はそうした流れを攪乱する言説を生産する努力をしなければならない。しかしそれはイチローという発言者あるいはそのオリジナルの発言自体への批判によってなされるべきものなのか。そうではないだろう、と私は考える。むしろそうしたあり方こそが一部の(といってもかなり広範なレベルで)ものたちの「言葉狩りをされた」といった「抑圧経験」とでも言うべきものを生み出したのであり、そしてその「抑圧経験」の反動が「タブーを破る」ことへの憧れを呼び覚まし、「ただしき言説」を疎み、己の快不快に根拠をおいて他者を攻撃する今の言説状況を生み出したのではないのか。私(たち)がしなければならないのはそうした抑圧の連鎖を断ち切ることだ。
私(たち)がしなければならない作業はある意味明確だ。様々な発言が解釈される文脈を、その発言に見合った場に設定すること。個人と国家が直接向き合うかのようなナイーブ極まりない社会観を廃し、諸々の発言が「国家」言説に吸収されるのを妨げること。ナショナリズム言説が社会を覆うのに対抗するのはこうした戦略においてより無い。