間違っている論理展開

間違っている論理展開によって人びとは容易にだまされる。ここでは具体例を挙げて間違っている論理展開について考えたい。人をだます時には論理展開の約束事を破って己が望む解を導き出す。そしてそれは一見論理的であるだけに容易にだまされてしまう。この稿をそうするに当たっては以下のエントリを参照した。「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか。非常に勉強になったので私自身のメモのために自分流に事例を置き換えて考察したい。
まずは間違っている帰納的論理展開。帰納的に論理を展開し、解を導き出すには「適切な事例の選択」が必要である。以下は恣意的な事例選択により、間違った解を導き出した例。

うらやましいほど優雅に生きた平安貴族も、じつは短命でした。貴族の代表である歴代天皇の寿命を見てみると、平安前期には54歳だったのものが、中期には44歳、後期には33歳とじつに10年ずつ短縮しています。原因は、魚肉・肉食禁止による栄養不足と、雅な暮らしにともなう運動不足。これに対し、同時代の武士の代表である武将は、平安後期で最高88歳、平均で66.4歳、鎌倉に入っても平均56.8歳とそこには相当な差があります。その生命力において、ひ弱な貴族はしょせん屈強な武士の敵ではなかったのです。(『ビジュアル源氏物語 第5号』、デアゴスティーニ、二〇〇二年)

一見詳細なデータを出して帰納的に「平安貴族は短命」という解を導き出している。しかしそのデータの選択に問題がある。「貴族の代表」として歴代天皇の寿命を選択するのが恣意的である。平安後期には近衛天皇六条天皇安徳天皇という突発事故で死亡した天皇がいるので、平均寿命が下がるのである。特に8歳で無理心中事件の被害者となった安徳天皇の影響は大きいだろう。13歳で赤痢で死んだ六条天皇、17歳で死んだ近衛天皇も平均寿命の低下に大きく寄与している。
例えばこれを歴代摂関と比べてみよう。藤原忠通68歳、近衛基実24歳、松殿基房87歳、近衛基通74歳、松殿師家67歳、九条兼実59歳。。こう見てみると必ずしも平安貴族が短命とは限らないことがわかる。
さらに北条得宗家を見てみよう。そもそも「鎌倉武士」の詳細なデータが示されていないのは不審なのだ。北条時政78歳、義時62歳、泰時60歳、時氏28歳、経時23歳、時頼38歳、時宗34歳、貞時43歳、高時31歳。歴代摂関よりも短命である。歴代摂関と歴代得宗を比べると、鎌倉武士はひ弱で、平安貴族は頑強だった、という結論も導き出せるのである。こういう恣意的な事例選択によって導き出された解を信じてはいけない。
帰納的な論理展開をおこなう際に「因果関係」と「相関関係」を混同してはいけない。
貴族は体が弱かったので、武士に負けてしまった、という議論。つまり鎌倉幕府成立を貴族の体の弱さから論証しようという試みだが、天皇の平均寿命の低下と鎌倉幕府成立には確かに相関関係はある。平安末期に歴代天皇の平均寿命が短くなるのは事実だ。その頃に鎌倉幕府が成立するのも事実だ。しかし歴代天皇の寿命の低下が鎌倉幕府成立の原因ではない。先ほども説明したように歴代天皇の寿命の低下は突発事故によるものが大きく、貴族全体の寿命が短くなっているわけではないからである。
次に間違っている演繹的論理展開を検証したい。演繹的に論理展開をおこなうには「前提が正しいこと」「前提の適用が正しいこと」が必要である。
「ひ弱な貴族は屈強な武士の敵ではありませんでした」。これは「ひ弱な貴族」「屈強な武士」という前提がすでに崩壊している例である。この論の前提となっているのが「貴族があたらしくおこった武士の勢力に負けてしまうのも、体力が弱くて不健康な生活をしたいたからだ。武士はもともと地方にいて農業生産をおこない、狩りをして体を鍛えながら動物性たんぱく質を補給していたから、力強い体格を持っていた」という論である。これはそもそも貴族が体力が弱くて不健康な生活をしている、という前提が誤っているのである。平安貴族はしばしば誤解されるが、彼ら全てが屋内ばかりにいて運動不足であったわけではない。貴族の中にも武力を持っているものもいた。桓武天皇の孫高望王の子孫である伊勢平氏はその一例である。他に清和天皇の孫経基王を祖とする摂津源氏河内源氏藤原秀郷を祖とする秀郷流藤原氏などが代表的な軍事力を持った貴族である。彼らは概ね受領としての地位を持ち、武力を持って朝廷に仕えていた。こういう貴族を軍事貴族という。その子孫は各地に分立し、特に坂東地方には桓武平氏の流れを引くものが多く存在していた。そして坂東地方に分立した桓武平氏の子孫は多くは鎌倉に本拠を構えた河内源氏支配下に入ることとなった。彼らは決して農業生産を行っていた有力農民が武装したものとは言い切れない。特に地位が高かったのが源満仲とその嫡子頼光に発する摂津源氏である。酒呑童子説話で有名な頼光、鵺(ぬえ)を退治した源頼政、彼らが摂津源氏の当主であり、部下には渡辺党や坂田公時など畿内武装集団を配下にしていた。そしてあらゆる邪なるものを取り除く辟邪という職掌を持って朝廷に仕えていたのである。鵺も酒呑童子も疫病をモチーフとした伝説である、と考えられている。刀や弓で辟邪の職掌を取り仕切る貴族、これが摂津源氏である。軍事貴族でなくても藤原保昌は個人的に武勇に秀で、弟保輔は強盗を行っていた、という。彼らのように家業としてではなく、個人的に武勇に秀でたものを都の武者と呼んだ。保昌は頼光と酒呑童子説話に出てくるし、保輔は袴垂という強盗と同一視され現在に伝わる。貴族が体が弱かった、という前提はすでにおかしい。
前提の適用を誤っている、というのは「貴族が新しく興った武士の勢力に負けるのは、体力が弱くて不健康だからだ」という論である。武士の勢力に貴族が負ける、というのは、おそらく鎌倉幕府成立を指しているのであろうが、鎌倉幕府成立論に貴族が体が弱い、という前提を適用するのは誤っている。仮に貴族が武士よりも体が弱かった、という前提が正しかったにせよ(すでに誤っているのだが)、鎌倉幕府を成立せしめた要因は武士の後押しだけではないからである。九条兼実などの親頼朝派の貴族や頼朝と元より深い関係のあった中原康富や大江広元などの下級貴族の協力があり、東国における経済発展と西国における飢饉の頻発などの条件があり、さらには家門政治の展開という条件が重なって鎌倉幕府も成立したのである。現在鎌倉幕府成立過程に関する学説は権門体制論が挙げられるが、もちろん他にもさまざまな学説があり、一概に言えるものではない。しかし一つはっきりしているのは、武士が貴族を一方的に圧倒して鎌倉幕府を成立させたのではない、ということである。従って貴族の体力の弱さを前提にして鎌倉幕府成立論を論じるのは、その前提の適用が誤っているのだ。