「制度」としての「天皇制」と「身体」としての「天皇」

反天皇制運動の困難さは「制度」としての天皇制への動員が「身体」を通じて機能する点にある。「制度」に対する批判が「身体」としての天皇批判にすり替わる時、反天皇制運動は「非人間的」として非難される。しかし昭和という時代は「戦犯」という視点で昭和天皇を批判することで、「制度」としての天皇制批判に直結しえたのだ。「戦犯ヒロヒト」なる言い方がある程度(かなり限定的だっただろうが、少なくとも天皇制批判をその中核に据えていた歴史学においては比較的よく聞かれた言説)有効性を持ったのには、昭和天皇という「身体」を批判することが可能だったからだ。昭和から平成に変わった時、「反天皇制」を掲げる時に、もはや「身体」への批判は「制度」批判としての有効性を持ちえない、ということを意識すべきであった。私がある学会の委員をしていた時、今上天皇が戦争責任について論及した時、学会の委員の多数派が今上天皇批判を展開した。私はそれに反対した。論拠としては天皇個人をここで攻撃しても意味がないどころか、天皇に「外国への謝罪」という政治的権能を期待することの矛盾を指摘したのであるが、感情的な「天皇攻撃」への欲望の前に私の意見は葬り去られた。今上天皇が「国民の皆さんと憲法を守り・・・」と即位儀礼の中で述べたことに対しても非常に冷めた意見が多かった。とにかく「天皇」という「身体」を攻撃することに躍起になっていたのである。しかしそれが通用したのはせいぜい昭和までである。
昨日のエントリで触れた人々は昭和の感覚を持って天皇制に相対していたわけだ。しかし皇室に対する人格攻撃は今やネットウヨと呼ばれる人々にその中心がある。特に皇太子一家への攻撃はかなり激化している。ネットを見れば愛子内親王や皇太子妃への人格的な誹謗中傷は枚挙にいとまは無い。それを支えているのは、男系天皇制を主導する人々だ。現在「制度」と「身体」とのずれに直面しているのは左翼だけではない。多くの保守的なネット言論が「天皇の人柄」は問題ではない、ということを主張している。甚だしい例を挙げれば、現在の天皇の意向と完全に反対の主張をしている人が平然と私の立場は皇道派新右翼である」と主張するに及んではこちらとしてはびっくりするしかないのだが、これはびっくりしている私の方が浅はかなのだ。皇道派と主張する人々は基本的に「自分の脳内の思想に合致した天皇」を支持するのであって、つまるところ「皇道派」ではなく「俺派右翼」なのだ。それは今も昔も実は変わらない。「昭和天皇独白録」を読めば一目瞭然である。今の保守派論客はそのことをかなり自明のものとして意識しているように思われる。天皇の「身体」が尊崇の対象ではなく、自分の政治思想に合致するように紡ぎ出された「伝統」という物語を正当化する「制度」としての天皇制が彼らの欲しい物なのである。だから自分の意思と反する天皇の発言は全力を挙げて抹殺しようとする。その動きは匿名掲示板や電凸の動きを見れば明白である。