東京都知事選の結果の感想

私は東京都民ではないので今回の選挙結果について論評する資格はない。思いつきを少々。
もし私が東京都民だったら、今回外山恒一候補に「やけっぱちの一票」を入れるか、まじめに浅野史郎候補に入れるか悩んだと思う。そして投票所で「外山恒一」と書きたい欲望を抑えて、かろうじて「浅野史郎」と書いて午後8時過ぎに腹の底から「外山恒一」と書かなかった己を悔いる、と。
私は石原氏の政策には賛成しないし、まず「石原慎太郎」と書くことはあり得ない。しかし都民がそれを選択したのであれば仕方がないだろう。国旗国歌「強制」について反発している層はおそらく総出で「浅野史郎」と書いたはずだから、「国旗に起立、国歌斉唱」は当然というのが多数派の民意だった、ということだ。それは直視しなければなるまい。もし東京都教育委員の方針に反対で「石原慎太郎」と書いたとすれば、それは「アホ」だ。東京都教育委員会の方針に賛成で「浅野史郎」とか「吉田万三」とか書くのと同等の無意味な行為である。だから東京都民の選択は東京都教育委員会の方針を是認した、ということで、非都民である私がとやかく言うことではない。
私が「外山恒一」に入れなかったことを後悔したであろう、という予測は、吉田万三票と浅野史郎票を足しても石原票に届かなかった、ということに根拠がある。最初から勝てない選挙だったのだ。吉田氏が立候補を取りやめたところで石原当選は決まっていたことであり、それが東京都民の内の280万人の選択だったのだ。東京都民のその選択に「賢明だ」とか「無知だ」とか論評することは繰り言でしかない。
ただそれでも私は一つだけいいたいことがある。石原氏及び石原氏に投票した人々にではない。吉田氏及び日本共産党に、である。今回の石原氏圧勝に一番胸をなで下ろしているのは日本共産党ではないだろうか。もし浅野氏が石原氏に5000票差まで肉薄して敗れれば、日本共産党は反石原の人々の恨みを一身に背負っていたであろうから。今回の選挙ははっきり言って共産党の果たした役割は石原氏三選に思いっきり寄与した、ということである。そしておそらくそれは共産党の戦術だったのだろう。共産党としては浅野氏が万が一当選することがあっては共産党の存在意義がなくなる、と判断したのではないか、と勘ぐりたくなるのだ。石原都政のもとでこそ共産党の存在感が増す、と。その勘ぐりは吉田氏の敗戦の弁を聞いて確信となった。吉田氏は確かこう言ったはずだ。「いい戦いができた。石原さんも反省を口にし、福祉を一生懸命やると言うようになった。変化を生み出してきた」と。石原氏にとって共産党の主張を受け入れて福祉のことをやるのは、痛くも痒くもないどころか、石原都政をよりよくする建設的な提言でしかない。石原氏も「反省」はかなぐり捨てたが、おそらく福祉を一生懸命やる、というには偽りはあるまい。それは石原批判ですらないからだ。共産党の提言を受け入れることで石原都政はより輝きを増すことが出来る、そういう態のものだからだ。
考えれば共産党というのはそういう戦略で来たことは間違いがない。与党を延命させ、野党として存在感を主張する、これが共産党の戦術である。そして与党を批判することよりも大事なのは自分の存在感を脅かしかねない勢力への攻撃なのだ。こういうのを党利党略と呼ばないで何と言うのか。
浅野陣営に問題がないと言えばそれも違うだろう。それまで「勝手連」に頼りながら突然民主党社民党の支持を表面に打ち出したことがよけいに浅野離れを加速させたということもある。ここでも党利党略が幅を利かせ、却って浅野陣営の足を引っ張ったのではなかったか。
石原都政に批判的な人々に今求められているのは、繰り言を言うのではなく、なぜ石原氏が支持されたのか、ということと、なぜ反石原氏の声は届かなかったのか、ということの考察であり、さらに言えば、反石原を説いてきた自分の論理の再検討ではないか。自分の論理の根幹を変える必要は当然ない。しかし少なくとも今やそういう論理は少数派になりつつあり、少数派としてどう主張していくのか、ということを考えなければならないはずだ。反石原の論陣を張る者にとって今必要なのは石原都政の継続を選択した東京都民批判ではなく、むしろ石原都政を継続させた反石原陣営の総括である。もちろん石原都政そのものへの批判は建設的な提言や根本的な批判等も含めて行うべきだろう。それ自体は一部の小児的な人間を除いて石原支持の人々にとっても歓迎されるべきものであるはずだからだ。それと並行して反石原の論陣はなぜ敗れたのか、という総括は真剣に行われるべきだろう。でなければ、石原都政を批判することすら覚束ないはずだ。