安倍氏と菅氏の集団自決をめぐる議論

これを論評する時に重要なのは、安倍氏と菅氏のどちらの議論が正しいか、ということを示すつもりはない、ということである。私の思想に近いのは、菅氏の方であり、安倍氏や伊吹氏に共感するところは基本的にない。従って「どちらが正しいか」と言われれば、私は当然「菅氏が断じて正しい。安倍氏と伊吹氏の議論は話にならない」というに決まっている。そしてその意見には何の意味もない。私が安倍氏と伊吹氏を嫌っている、ということしかわからないからだ。
私が注目したのはまず伊吹氏のこの発言。

家永裁判以降の検定のあり方と言うのは、客観的な専門家の教科書に対する調査によって両論があることを一方だけ書く、ということはやらない、と。あるいは自分のイズムをもって書く、というのは認めない。

これを伊吹氏のタテマエと見る向きもあるだろうが、実は伊吹氏はずいぶん正直に答えているのだ。家永裁判にささやかながら関わりを持った私の知っている情報と伊吹氏のこの情報は合致する。家永裁判に反発する人々はむしろ家永裁判で何も変わらなかった、ということを主張しているのであり、伊吹氏のこの発言は家永裁判の意義をこれだけはっきりと主張したのは画期的とすら言える。
実際家永裁判が起こされた時の検定は、戦前の東京帝大国史学科を牛耳った皇国史観平泉澄氏の弟子であった村尾次郎氏が行っていた。従って当然一つのイズムを教科書に求めていたのである。しかし家永裁判以降、検定官を変え、非常に客観的な検定を行なうようになっていったのである。90年代話題になった検定意見に「四つの口についてもう少し書け」というのがあり、荒野泰典氏の議論を踏まえよ、という検定意見に「そこまで書いてよかったんだ」という驚きの声が当時歴史学研究者の間ではもれていた。『新しい歴史教科書』に対しては検定官自身が非常に問題に感じていたことも仄聞するし、検定に関する伊吹氏の発言はあながち不当ではない。むしろ家永教科書裁判に関わっていた身からすると、「よく言ってくれた」とすら思う。
次に安倍氏と菅氏の応酬だが、これは私は赤松正雄衆議院議員公明党)の次の発言とは正反対の感想を持った。

結論的に言うと、論戦という観点からは、安倍さんの一方的勝利だったと思う。官さんになす術を与えなかったと言っていい。ただ、喧嘩をあまりに売りすぎだ。すべてを挑発ととらえ、相手の土俵に乗らないことを徹底した。そのことからくる、議論に全くならないすれ違いの連続に対して、後味の悪さが残った。

私の感想は菅氏の僅差の判定勝ちである。ただ議論に全くならないすれ違いの連続の原因もまた菅氏にある、と。赤松氏は「すべてを挑発ととらえ、相手の土俵に乗らないことを徹底」とあるが、挑発したのは菅氏である。そして挑発に乗ってしまい、菅氏に得点を与えたこと踏まえて土俵にのらなかったのだ。菅氏は巧妙と言うか、狡猾と言うか、それに対し安倍氏の正直さ、素直さが露呈した議論だったように思う。赤松氏は「安倍びいきの方は、ますます好きになり、嫌いなひとはますます嫌いになったと思われる。」というが、それは私も同感である。「自陣営の支持の輪を広げることはできないのではないか。」という状況に菅氏が持ち込んだことを以て菅氏の判定勝ちと私は思ったのである。
しかしそれは菅氏の議論の質が優れていたことを担保するのではない。菅氏が優れていたのは議論の進め方である。菅氏が「総理、こういう方をご存知ですか、と言った途端に何でそんなにキレなくてはならないんですか。」と言い、それに対して安倍氏は「私は菅さんほどキレやすくはないですけどね」と返している。しかし菅氏にとってはキレることは芸の一つである。菅氏はキレ芸が持ちネタなのだ。安倍氏の場合明らかにうろたえてキレている。計算ずくでのキレではあるまい。その点が安倍氏の失点である。カンニング竹山相手にキレた芸人が「私は竹山さんほどキレやすくはないですけどね」と言ったところですでに勝負はついているのだ。菅氏はもう一回安倍氏をキレさせることに成功している。人が悪いというのか。先の赤松氏の言葉を借りれば「菅びいきの方は、ますます好きになり、嫌いな人はますます嫌いになったと思われる」ということになる。もともと菅氏はそれが持ち味だったので、ダメージにはならないだろう。安倍氏は国民的人気を背景に総理に上り詰めた政治家である。それが「あれでは、敵を味方にするのは難しい。自陣営の支持の輪を広げることはできないのではないか。」と、与党からも言われるようでは、安倍氏にとっては厳しい結果であったと言えるだろう。
もう一つの安倍氏のダメージは、キレるところが悪かった、ということである。安倍氏藤岡信勝氏らのいわゆる「自由主義史観」と共鳴するところが多いのは当然であって、「藤岡氏については全く存じ上げません」と言われた方がむしろびっくりするくらいである。そしてそれは全く悪いことでも何でもない。菅氏もそこは重々承知だろう。しかしあえてその名前を出して見た。すると安倍氏がうろたえ、キレた。菅氏は予想以上の反応にほくそ笑んだであろう。菅氏がここで行なったのは印象操作である。安倍氏にも藤岡氏にも検定に関わることはできないのは菅氏も承知している。しかしあえて藤岡氏の名前を出し、その反応をうかがうことで、藤岡氏と安倍氏の共通点をあたかも検定結果に関係があるかのような印象を出さしめた段階で菅氏の目的は達成されたのだ。
安倍氏はどうすればよかったのか。私が安倍氏の立場であれば、菅氏の「総理この代表の藤岡さんという方はご存知なんじゃないでしょうか。」という質問に対し、「存じ上げておりますし、氏の活動に敬意ももっております。しかし今回の検定に私が影響を及ぼすことはそもそもできないし、藤岡氏が検定に関わることもあり得ない、ということは最前文部科学大臣の方から申し上げた通りです」とにっこり笑って返すだろう。案外これで菅氏も攻め手がなくなったのではないだろうか。
もし検定結果に安倍氏や伊吹氏がからんでいたことを証明したいのであれば、検定官の人的構成やその採用の経緯、あるいはその指示系統をしっかり把握しなければなるまい。実は検定官は大学院博士課程修了者の本就職までの腰かけなのだ。優秀な若手研究者が配属されている。問題はその若手研究者自体がネット世論の影響を受けて、政府よりの歴史観を持つようになっている、という現実であり、安倍氏や伊吹氏の直接的な影響をいくら論ったところで、実際には何も出てこないだろう。検定官は自己の歴史観に基づいて、「客観的に」教科書検定を遂行したのである。かつて「四つの口をかけ」とか、「新しい歴史教科書」や「新編日本史」に厳しい修正意見を付したように、今回集団自決の記述に検定意見を付したのである。菅氏はそれをおそらく百も承知で藤岡氏の名前をあげ、あたかも藤岡氏と関係のある安倍氏が検定を強制したかのような印象を与えようとし、安倍氏がうろたえてキレたことで、その印象操作に成功した。その意味で菅氏は目標を達成したのであるが、安倍氏を支持する人々からすれば「菅氏の議論はおかしい」という印象を与えることになったのである。そしてそれもそれで根拠のある印象なのだ。
私がむしろ危機感を抱いているのは、検定官などを務める年代をはじめとした歴史学の若手研究者の思想性そのものである。