この期に及んで安倍内閣を弁護してみる

私は安倍内閣の政策に納得できるところはほとんどない。今回の参議院選の結果を漢字一字で表すとすれば「ざまあみろ」だ*1。だからこそ安倍内閣を弁護もしなければフェアではない。安倍内閣を弁護する意見もいくつか見てみたが、やはり安倍好きが弁護しても説得力はない。支離滅裂な意見ばかりが目に付き、今のネット上における安倍擁護の意見は、安倍擁護になるどころか、逆効果で安倍政権を支持する人々がレベルが低い、という印象すら抱かせかねない惨状である。というよりこの期に及んで安倍内閣を弁護し続けること自体にかなり無理があるのかも知れない。しかし世の中圧倒的に安倍バッシングが多い中で、安倍内閣を弁護すること自体は、逆に安倍内閣の問題点を整理するうえでもある程度の意味はあるだろう。感情的な、あるいは屋上屋を重ねる安倍批判の論調を少しでも整理するためにも、冷静に安倍政権を弁護することは、反安倍の姿勢を取るにせよ、安倍政権支持の姿勢を取るにせよ、有用であると考える次第である。
この期に及んで安倍内閣を弁護する人々が一つ覚えで繰り返すのは、マスコミによる洗脳である。彼らは郵政選挙の時の小泉万歳の報道を見ても、野党よりの反小泉報道だと捉えたので、彼らは大政翼賛会か、北朝鮮クラスの報道以外は受け付けないのだといいたくもなるが、実際、今回に関して言えば確かにマスコミの安倍内閣バッシングはひどいものがあった。特に赤城徳彦農水相バッシングはいささか気の毒であった。ばんそうこうは安倍政権とはなんにも関係がない。事務所問題は関係があるのだが、ばんそうこうで象徴させるのは行き過ぎだ。郵政選挙と今回の選挙を通じての教訓は、今の政治はマスコミを敵に回しては勝てない、ということである。みのもんた田原総一朗岸井成格の諸氏がいくら頑張っても、完全に風は民主党に吹いていた。これについては電通に対する新聞組の勝利と考える意見(「田勢康弘が吹かせた風 - 新聞組の勝利と電通組の敗北 : 世に倦む日日」)もあるが、私は電通安倍内閣に対するはしごを外した可能性もあると考えている。内閣支持率をはじめとした数字はかなり操作がなされていて、この数年はかなり露骨に二桁レベルで改ざんを行なう、という話を人づてに聞いたのだが、数字の改ざんはともかく、調査項目の選択などでかなり操作はできるだろう。小泉内閣の時にはかなり小泉をどこのマスコミもよいしょした。小泉人気に逆らうわけにはいかなかったからだ。せいぜい小泉批判派にも配慮してガス抜き程度の小泉批判を行い、バランスをとる程度だった。安倍内閣になって、支持率が高い間は黙っていたが、支持率が下がると勝馬に乗る日本のマスコミは一斉に安倍批判に転じた。産経新聞は安倍支持は変わらなかったが、夕刊フジで安倍批判を行ない、バランスをとっていた。マスコミも商売だから、売れそうなものに食いつくのは必然なので、マスコミが一斉に一つの方向に流されていくのは、やむを得ない側面もある。受け手である我々がそれに流されない姿勢が必要なのだ。
岸井成格氏や田原総一朗氏は最後まで安倍支持だったが、マスコミの大勢が反安倍に向かったのは、一つには勝馬に乗った、というのもあるだろう。しかしそのスタートとして一つには安倍内閣に対する一部マスコミの批判もあったのではないだろうか。
マスコミ内部にある反安倍機運は私は財界と結びついたものではないように思うのだ。読売新聞は反小泉であったが、決して反安倍ではない。靖国問題で小泉前総理を批判した渡辺恒雄氏の動きは、中国貿易と中国投資の経済利害、日本の国益の要である中国との関係の正常化のため、という動機であれば、安倍政権でそれなりに解決の糸口が見いだされていたはずだ。安倍総理自身も靖国参拝をやるともやらないとも言わない方針で、せいぜい真榊料奉納で、これくらいならば中国や韓国(特亜)もガス抜き程度の批判で済ませられるわけだ。
安倍総理に対するマスコミの反発は、従軍慰安婦問題でのNHKへの「介入」が発端だろうと私は思う。従軍慰安婦に対する見解の相違を超えて、政治家による報道内容への「介入」とも取られかねない行為がマスコミ界に警戒心を持たせたのではないだろうか*2。さらに週刊朝日による名誉棄損報道への過剰な反応はまたマスコミ界の安倍氏に対する警戒心を強めることになったのだろう。朝日新聞は偏向しているから、朝日新聞をバッシングしても、小学館や新潮社や文芸春秋社産経新聞や読売新聞などの保守派マスコミは、戦後レジームの打破に賛成してくれる、朝日新聞よりも自分をとってくれる、と判断したのだろう。しかしマスコミの批判をマスコミが行うのはよいのだが、マスコミの批判を政治家がやることにはアレルギー反応があったのだろう。保守派マスコミも例えば産経新聞では安倍政権を擁護する一方で夕刊フジでは批判する、小学館サピオでは北朝鮮問題を煽り、安倍政権をサポートする一方で、週刊ポストでは安倍政権をバッシングに回る。こういう役割分担でバランスをとりながら、マスコミ全体が安倍下ろしに加担したのだ。言論で戦う、ということが全く安倍氏にはわかっていなかったとしかいいようがないのだが、その点のデリカシーのなさが、安倍氏へのマスコミ界の反発につながり、安倍バッシングの洪水につながったのである。無論安倍政権がデリケートな政権運営を行う資質に欠けていることをも示しているのであるが、同時にマスコミの意向がそのまま投票行動につながるマスコミファシズムにも問題がないとは言いきれない。その恐怖は小泉政権郵政選挙、安倍政権の年金未記録選挙に端的に現れている。

*1:ちなみに私の票は二票とも完全に死票

*2:例えば社会民主党日本共産党が政権入りして、文部科学大臣のポストをとり、従軍慰安婦問題で彼らの意見と反対の意見を持つ歴史学者に圧力を加えたとしたら、歴史学者は立場の相違を超えて団結しなければならない。研究者にとって精神の自由は何にもまして守られねばならないからである。これを失えば、研究者としての活動ができなくなる。もちろん権力の圧力に便乗した経歴のある歴史学者には誰も同情はしないだろう。権力の圧力に便乗して言論の自由を制約するような輩は、すでに言論人としての資格を喪失しているからだ。