亀田一家に対するマスコミの対応に関する一考察

マスコミの亀田一家に対する掌返しは、要するに「亀田一家というメタフィクション」から彼ら自身が外れたことにある。予定調和的な悪役ぶりと、漏れ聞こえてくる「実はいいヤツ」という裏の顔の意外性、これが彼らを押し上げた「亀田一家というメタフィクション」なのだ。「強ければ何をしても許される」のではない。あくまで「実はいいヤツ」という意外性がセットになっていなければならない。亀田史郎氏にはそれが分かっていなかった。「強ければ何をしても許される」と勘違いしていたのだ。もちろんそれを助長したのがTBSをはじめとして亀田一家を持ち上げ続けたマスコミであることは論をまたない。「強ければ何をしても許される」ことはないが、「視聴率を取れれば何をしても許される」のは事実である。「視聴率」を取るための道具が「亀田一家というメタフィクション」だったのだ。
こういう問題は何も亀田一家に限らない。安倍晋三前総理も同じような状況だったろう。「持ち上げておいて、落とす」。「一旦落とすと何もかも落とす」。こういうマスコミに対し、我々がなさねばならないのは、何を批判すべきなのか、を明らかにすることなのだ。例えば「美しい国」に関する会議が4900万円で無駄に終わった、という報道。福田康夫総理が「無駄」と言っている以上、「無駄」だったのだろうが、安倍前総理がああいう衝撃的な辞任をしなければどうだったか。私のような思想的偏向を持ち合わせている人には無駄でも、客観的に無駄かどうかはわからない。
亀田一家に話を絞ると、批判されるべきは「反則」である。度重なるサミングローブロー、最後の持ち上げ。それだけではなくセコンドの史郎氏からは「たま打てばええんや」興毅選手選手は「ひじでええから目に入れろ」と指示した。この点である。それ以外の部分を云々する、特に内藤大助選手の家にアポ無しで謝罪に訪れたことまで問題にするのは、明らかにやりすぎで、「亀田いじめ」にしか映らない。もっとも亀田一家をサポートするのであれば、それもありだが。
謝罪会見に関しては是非が分かれるところだろう。私自身は「下手打ったな」とは思う。しかし彼らの態度を非難しても生産的ではない。問題はなぜ彼らがああいう態度しか取れなかったのか、ということに尽きる。おそらく彼らは「何を謝ればいいのか分からない」状態だったのだろう。何もかも一斉に責め立てられ、どれに対し謝るべきなのか分からなかった。パフォーマンスやら反則やら何から何までバッシングされているわけだ。整理すれば、反則行為と反則行為の教唆が一番問題なのではなかったのか。そして史郎氏は反則行為の教唆に関しては「とりあえずもう、最後はもう、ポイントも取られているから、悔いのないように戦えと。後はどうとらえようが、そっち側は自由やけど、オレらは言ってません。」と否定した。問題はそこにしかないだろう、と思うのだ。「内藤選手に謝っていない」とか「態度が悪い」とかは瑣末な問題である。特に「オレらは言ってません」のあとの質問が「総理がコメントを出すほど事が大きくなっていることについては?」という質問である。内藤ー亀田大毅戦の何が問題の本質なのか理解していない証左でしかない。「総理がコメントを出す」ことがそれほど大事には思えないのだ。それよりも大事なのは世界戦という場で反則を教唆したのかしていないのか、ではないのか。