ネタにマジレス

東国原知事の「徴兵」発言。とにかく評判が悪そうだ。左派からは当然だろう。「徴兵」という言葉に脊髄反射すれば、その発言は「戦争を正当化するのか」とか、様々な感情的な批判を惹起する。しかし「戦争」について考えている右派からも評判は芳しくない。これも当然だろう。北東アジアの緊張した情勢の中で自衛隊に腑抜けた若者を訓練する余裕まであるわけがない。嫌韓の人々からも評判は悪い。徴兵で立派な人格が作れるかどうかは「隣国を見ればわかる」そうで、確かに韓国は徴兵がある。韓国を見習え、というような東国原知事の発言は嫌韓の人々にとっては受け入れがたいかもしれない。軍事に詳しい人々の間では、徴兵制は効率が悪いそうで、志願兵制の方が軍事力と言う面から見れば強いようだ。確かに一般の人を訓練するのには経費がかかるので効率は悪いかも知れない。少なくとも軍事的には今の日本には徴兵制を受け入れる論調は左右ともにない。
東国原知事の発言の何が問題なのか、を慎重に見極める必要がある。東国原知事は発言を次のように修正した。「例えば徴農制とかで、一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと、今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧している」。「徴兵制」という言葉にこだわるのも意味はあるとは思う。そもそも最初に「徴兵制」という言葉を使う東国原知事の感覚は確かに疑問を挟む余地はあるだろう。ではそこを最初から「徴兵制」ではなく「たけし軍団」と言っていれば問題はなかったのか。私はそうは思わない。
私はそもそも「徴農制」で「今後の担い手不足、社会構造の変化」に対応できるとは思えない。以前にも書いたが、私のヨメは農家の出身である。農繁期にはヨメも一応労働力として「徴農」される。休日にヨメの実家に行った私は何をしているのか。答えは寝ている、である。これが一番農家の負担にはならないのだ。私は無理に参加しようとすると最低限の足を引っ張らない程度の作業ができるまで「指導」をしなければならない。私が志願すれば向こうは喜んで教えてくれるだろう。しかしその分足を引っ張るのも事実で、実際には豆の葉取りとビニルハウスの設営作業はしたことがある。結局「いるだけ」「農業体験」をしただけであった。
実際「徴農」で若者が大量に農村にやってきて、やってもらうことはほとんどないのが実情である。今は機械化が進んでいるので、人手がいるのは例えば稲刈りの時にコンバインが入るための道を作るためにコンバインが入れる分の稲刈りをしておく、とか、田植えで田植え機が入れない部分の苗を植えるとか、で、農地改良によって田植え機が入れない田んぼは減少している。棚田は大変だが。豆では葉取りが一番手がかかる。収穫された枝豆の葉をとって、長さを切りそろえてしばり、タグを付けて出荷する。
そういう現実を知ることは確かに農業の今後にとっても一応プラスかも知れない。実際義父も中高生の実習を受け入れている。これは今の人々が口を極めて罵る「ゆとり教育」のカリキュラムの中で実現したことである。「徴農」などということを殊更に政治家が声高に主張しなくても、地道に学校教育の現場で農業を理解するための実習は行われているのである。「今後の担い手不足、社会構造の変化」に対応するための「徴農」ならば、農業を理解してもらうための「徴農」ならば、現在の学校教育の「農業体験」をもっと大規模に行えばそれでよい話ではないのか。
徴農」を主張する人は要するに厳しいことを若者にやらせて鍛えようという発想がある。東国原知事の「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」「社会のモラルハザード規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった」という発言からもそれは明らかである。しかし農業を「心身を鍛練する場」というのは、ずいぶん農業に対する偏見というか無知が入っている。「徴農」を主張する人は、農業の現実をどれだけ知っているのか、きわめて疑問である。
私自身農業の現実は何も知らないのも同然であり、さらに「介護、医療、災害復興の手伝い」に関しては農業以上に何も知らない。ただそういう現場が「心身を鍛練する場」として機能させられるべきではないのは、私にも分かる話である。実習生を受け入れるのは大変なコストがかかる。実習生を受け入れる側にも、実習生を受け入れてもらう側にも立ったことはないが、実習生を受け入れてもらうための交渉を身近に感じたことはある。やはり受け入れる側のコストは大変なのだ。だからこちらも相当気を使う。向こうには快く受け入れてもらっていることが、大変ありがたい。おそらく気軽に「心身を鍛練する場」として「農業」とか「介護、医療、災害復興の手伝い」を上げる人たちは、その現場を全く知らない、としかいいようがない。そもそも災害復興現場も「心身を鍛練する場」として気軽に挙げられる神経を疑う。災害救助ボランティアに対する冒涜ですらある。基本的に「徴農」の発想自体が農業に対する無知と偏見から成り立っているとしか思えない。「心身を鍛練する場」として自衛隊を挙げることも同前である。東国原知事の発言が左右問わず批判されるのは、その意味では当然だろう。東国原知事の発言に無邪気に賛同する人も、自衛隊や農業や医療や介護や災害復興現場に対する無知と軽視と偏見に染まっている。
私は東国原知事がああいう無知と偏見をさらけ出すことは無理もない、と思っている。彼の経歴を見る限り、基本的に社会の現場を知らないことは明白だからだ。知っているのは「芸能界」の厳しさだけだろう。問題はその発言に無邪気に賛同している意見が一定数存在することである。
「社会のモラルハザード規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。」という問いに対しては、あくまでも学校教育の復興しかないだろう。農業、介護、医療、災害復興現場、自衛隊の「今後の担い手不足、社会構造の変化」に対応するためにはそれぞれの現場ごとに違うだろうが、農業に関していえば、農業が魅力ある産業となるような施策を施すことの方が必要である。「徴農」というような、自分の倫理観の押し付けで農業がよくなるようには到底思われない。
若者の「モラルハザード規範意識の欠落、希薄化」を嘆く前に、「加藤の実家が右翼団体幹部に放火された事件について、「対談記事が掲載された15日に、先生の家が丸焼けになった」と「軽い口調で話」(「稲田朋美 - Wikipedia」)すような人の「モラルハザード」こそ批判されねばならないのではないか。
追記
現役自衛隊員の言葉が紹介されていた(「http://news.ameba.jp/domestic/2007/11/8986.html」)。

「徴兵制と言いますが、現代の戦争は兵器の能力が殆どであって、1年や2年訓練した人間がいたところで邪魔なだけでしょう。アメリカがイラクに侵攻した時、まず最初に徹底的にミサイルを打ち込んで空爆して、というやり方だったでしょう。現在、戦争をするとしたらそういうやり方になる訳です。そもそも、侵略戦争でもするのでなければ人がたくさんいたところで意味がありません。それに、今の自衛隊は競争率が高いのを知らないんですかね? 規律さえ守れないような程度の人間が入って来られても迷惑なだけなんですが。飲み屋での戯れ言で言うならまだしも、公的な場でこういう発言をするなんて、何を考えているんですかね? 政治家が現在の自衛隊について無知であるというのは個人的には問題があると思いますよ」。

この発言、「1年や2年訓練した人間がいたところで邪魔なだけでしょう」とか「規律さえ守れないような程度の人間が入って来られても迷惑なだけなんですが。飲み屋での戯れ言で言うならまだしも、公的な場でこういう発言をするなんて、何を考えているんですかね?」というのは、農業・医療・介護・災害復興現場のどれにも当てはまる。東国原知事発言の蹉跌の本質は本来無関係な「社会のモラルハザード規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか」という問いに対して「例えば徴農制とかで、一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと、今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧している」という言葉を持ってきたことにある。この二つは本来全く無関係のものだ。「社会のモラルハザード規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか」という問題を国防・医療・農業・介護・災害復興現場などに押し付ける態度が問題なのだ。