プレイモデル

1978年に『鉄道模型趣味』誌の増刊として発刊された『PLAY MODEL』(以下『プレイモデル』)。Nゲージブームと関係があるだろう。私がNゲージを始めたのが77年の12月で、その半年後に発刊されたので、さっそく飛びついたのは言うまでもない。第1号は78年夏。発行者の機芸出版社も試行錯誤だったのだろう。
最初の記事が「N君の欲しいもの」。「Nゲージの車輛で欲しいのはねェー、東海型の1編成なんだ。ほら、ブック型ケースに入った6輛セットがあるだろう。急行と言うサボを付けて走らせたいんだ…」というあたりはNゲージに関わることだが、あとはスニーカーとか、持ち運び式のテレビとか、Nゲージに関係ないものが。きわめつけが阪神巨人戦のチケット。N君は大の巨人ファンだそうで、「今年の阪神はどうも低迷ぎみだけど、見るならやはり伝統の一戦を」という。確かに1978年の阪神は最下位に低迷していた。「さすがN君、ウルサイねえ。キミが見に行く時は王と張本を主砲とする巨人打線、田淵と掛布の両巨砲を持つ阪神打線のぶつかり合う良い試合になることは間違いなさそうだ」と書いてある。ちなみにその年のそれぞれの選手の成績を見ておくと、以下のようになる。
王貞治一塁手 打率.300、39本塁打、118打点、オールスター出場、ベストナインゴールデングラブ賞打点王、最多出塁、この年の8月30日には通算800号本塁打を放つ。
張本勲外野手 打率.319、21本塁打、73打点、オールスター出場
田淵幸一捕手 打率.288、38本塁打、89打点、オールスター出場
掛布雅之三塁手 打率.318、32本塁打、102打点、オールスター出場、ベストナインゴールデングラブ賞、この年の8月31日から9月1日に4打数連続本塁打を記録。
みんな一応オールスターに出場している。田淵幸一捕手はシーズン後に西武ライオンズにトレードとなっている。
この年のペナントレースセリーグがヤクルト・巨人・広島・大洋・中日・阪神パリーグが阪急・近鉄・日ハム・ロッテ・クラウン・南海。クラウンは翌シーズンから西武ライオンズになる。日本シリーズは広岡達郎監督率いるヤクルトが上田利治監督率いる阪急を下して初の日本一。ちなみに阪神後藤次男監督で、一年での退陣となった。この年のオフにはいわゆる江川事件が起こる。
いつのまにか野球のネタになってしまっている。軌道修正。
N君の欲しいもの、の最後に「やっぱりGFかな?」とある。GFとはガールフレンドのこと。そこに映っている少女をN君と勘違いしたのは私です。読者の声で「p5に出ている女の子は、もっとカワイイのがよかった」というある意味失礼な投書で女の子と知って愕然とした私はめちゃくちゃ失礼なヤツだ。今見るとどこからどう見てもボーイッシュな女の子で、N君には全く見えないのだから、当時の私は「女の子らしい」というステロタイプが強固に頭の中にあったのだろう。
ちなみに読者の反応は「ぼくたちの心の中をさぐられたみたい」という気を使ったものから、「これは必要ないと思う。僕たちは鉄道模型のためにTMSを買っているのだから、関係のない野球やスニーカーのことなど必要ない」という「正論」まであった。
あともう一つよくわからない記事が「お母さんのNゲージ入門」。「お母さん」がNゲージにはまる、というのはレアケースだと思うのだが、Nゲージの裾野を広げようという努力の一環だったのだろう。現在の『Nゲージマガジン』の前身なだけにNゲージ専門というイメージが強いし、現に巻頭に「N君の欲しいもの」があるのだから、Nゲージがメインであることは間違いがないのだが、「高原のナロー」という記事で草軽ムードのレイアウトを紹介したり、いさみやのHOゲージのペーパーキット組み立ての記事があったりして、必ずしもNゲージ一辺倒ではなかった。草軽ムードのレイアウトを見て以来草軽電鉄ファンで、ワールド工芸のデキ13を買ってしまうまでになった。今思えば信州への一方的な憧れはここから胚胎していたのかもしれない、と思う。決定的になったのは『プレイモデル』2号の咲花駅のセクションだが。
オリジナルのTシャツを作る記事や、プラ板エッチングヘッドマークを作って自動車や自転車に付けてみよう、という記事があった。
『プレイモデル』の名物が改造記事。EF70をED76、ED61をED62にするのはいずれも中間台車の交換や追加。厳密に言えばEF70とED76は形態がかなり違うので、あくまで雰囲気重視。カニ21をカニ22にするのはパンタグラフの追加。これも窓配置が異なるので雰囲気重視になる。エンドウのEF58の茶色に銀色のメタリックテープを貼ってお召し機に、という軽加工や当時市販されていなかった181系特急用電車の食堂車サシ181をキシ80を使うというアイデアも紹介されている。しかしこの号の花形はオハ12をキハ65に改造する、という記事。オハ12のトイレ部分を運転台にする、という大規模な加工。1978年当時は気動車はほとんど市販されておらず、キハ20系列とキハ02だけであった。キハ20系列もキハ20、キハ25、キハユニ26だけで、キハ22がなかったので、急行を走らせることが出来なかったのだ。キハ65の改造は福音だったが、動力はどうするんだ、という疑問は常につきまとう。これは第2号でも急行型気動車を作る記事があり、そこでも動力問題は解決されないまま。
加工のページとは別にブルートレインの塗り替え記事もある。いわく「国鉄ブルートレインがあるのなら、君の鉄道にグリーンエキスプレスやレッドトレインがあったっておかしくない」。いやおかしいと思う。レッドトレインといえば50系客車か。『鉄道ジャーナル』誌が50系客車に「レッドトレイン」と名付けていたことが思い出される。
「君の鉄道の20系や24系たちがなにもブルーでなくったって良いんだ。君はこの一編成を別の色に塗り替える。ということを考えてみたことがあるかな?」
止めとけ、って。後悔するだけだぞ。
で、作例も紹介されている。
ダークグリーンに塗った後、サイドに金色のメタリックテープの帯を通してみた。これは名付けてグリーンエキスプレス!僕の鉄道の最優等特急だ」
「写真の例(Nゲージは積水金属のEF65と20系、16.5mmゲージはトミーのEF58)はいずれもプラ車体なので塗料はプラ用を仕様、青と黄を基調にしてホンのわずかの赤を加えて渋い色調にしてみた。グリーンの例に限らないが、ふだんから自動車などの色を研究しておくと大いに参考になる。特にベンツやポルシェなどの色には中々きまったヤツがいるのでお勧めしたい」
トミーの16.5mmは当時5800円で出していたプラ製品。NゲージのエンドウのEF58よりも安い製品として話題になった。すぐに消えたが。
ダークグリーンに金色の帯のグリーンエキスプレスだが、今になって見れば、ダークグリーンに黄色の帯のJR西日本トワイライトエクスプレスに似ている。もしかしてこの記事に煽られて自分の虎の子のNゲージを塗り替えた人が企画したとか?多分違うとは思うが。