琉球と日本

沖縄がもともと「日本国」ではない、というのは歴史学においては自明の史実に属する。いつ、どのようにして「日本」に組み込まれるのか、と言えば、はっきり組み込まれるのは「琉球処分」である。それ以前は「琉球」という独立国であった。沖縄県が「日本」の範疇に入ったのか、と言えば19世紀も末になってからなのだ。
江戸時代は一方で清の冊封を受けながら、一方で薩摩藩の支配を受けていた。薩摩藩にとって清の冊封を受け、清との間に朝貢ー回賜の関係を保っておいた方が、薩摩藩に大きな利益をもたらすために好都合だったからである。薩摩藩の島津氏との関係はかなり昔に遡るように思われがちだが、実は江戸時代に入ってからである。室町時代には琉球は完全に独立国として日本国王と対峙していた。その辺のことを少し述べてみたい。
まず明への朝貢の回数。明の被冊封国としてまず思い浮かぶのが朝鮮、という人は歴史に対し無知である、と言って差し支えない。朝鮮は明代にわずか30回。日本が19回で、日本の場合は明から10年に一回という制限を課されていたので、それを考えると日本と朝鮮の朝貢回数はあまり変わらない。圧倒的に多いのが琉球で171回。ほぼ毎年朝貢をしていることになる。二位が安南(ベトナム)で89回。琉球朝貢回数は群を抜いている。これは琉球の事情もさることながら明側の事情も働いている。
琉球が交流していた国々の名前を挙げると暹羅(シャム)・満刺加(マラッカ)・旧巷(パレンバン)・蘇門答剌(スマトラ)・太泥(ブルネイ)・安南(ベトナム)・朝鮮・日本となる。これらの国々との間に外交文書の写が残されている。
ちなみにこれは先に挙げた諸国が琉球に来たわけではない。琉球の船が今挙げた国々に出ていったのである。琉球は自らを「万国津梁」と位置づけていた。今風の言葉に直せば「世界の掛け橋」というところであろうか。
ただ日本との関係は外交文書を集めた『歴代宝案』には載せられていない。そして日本とのある意味特殊な関係がその後の琉日関係を規定していくのである。その辺を次回以降検討していきたい。